今回は、蓮如上人のお弟子である法円について紹介します。
法円は「摂津河内門徒の中心人物は、この石見入道光善と久宝寺道場の法円とであった」(引用:真宗史概説)と評価されるほど、摂河地方での布教で大変活躍したとされる人物です。
石見入道光善については、下記をご覧ください。
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久宝寺の法円について
法円は、河内国久宝寺という地域で活躍した蓮如上人のお弟子で、久宝寺の法円と呼ばれています。
別の記事で紹介した顕正寺がある地域です。
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また現在の浄照坊の開基とされる僧侶です。浄照坊は、現在の位置とは異なり、蓮如上人が石山本願寺(大阪御坊)を開かれたときには、法円が石山本願寺の近くに「通寺」を設けており、このときが浄照坊の開基となっています。
蓮如上人と法円の信頼関係
法円の年齢は不明ですが、『浄照坊来歴』(亨保17年浄照坊第11代慈春筆)によると、慈願寺4代目の僧侶で、蓮如上人の直弟子でありました。(ちなみに慈願寺の「慈願寺由緒書之覚」には6代目とある。)
慈願寺については、こちらの記事をお読み下さい。
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法円
法円は、蓮如上人からの信頼は厚く、「蓮如上人の御弟子の中において法円ことさら法儀堅固なるが故に」(引用:浄照坊来歴)と記され、蓮如上人から以下のものを頂いています。
- 1456年(長禄二年)十字名号修復裏書き(慈願寺所蔵)
- 1467年(文明二年)口伝鈔(浄照坊所蔵)
- 1475年 (文明七年)親鸞聖人絵伝(慈願寺所蔵)
蓮如上人が1465年(寛正六年)に叡山僧徒によって本願寺を破却されたあとは、久宝寺の法円のもとにも身を寄せていたと言われます。またこの時期に法円からの依頼で、蓮如上人は口伝鈔の書写本を授与されました。
秘蔵書也雖然河内国渋河郡久宝寺法円、依所望予初一丁之分染筆訖
引用:浄照坊所蔵口伝鈔奥書
意訳:(口伝鈔は)秘蔵書だけれども河内国渋河郡久宝寺の法円の所望に依り、蓮如が初一丁を染筆奥書しました。
このあと1468年に、蓮如上人は、拠点を吉崎へと移されています。
そして61歳(1475年)のとき、吉崎から拠点を大阪に移されたあとも、法円に親鸞聖人絵伝を授与されるなど、蓮如上人と法円の深い信頼関係が、長い間、継続していたことが伺えます。
文明八年の御文章
蓮如上人が摂河泉和における状況に、関心を向けられていた御文章があります。
抑このごろ摂州・河内・大和・和泉四ケ国のあひだにをいて当流門徒中に、あるひは聖道禅僧のはてなんどいふ仁体とも当流に帰するよしにて、をのをの本宗の字ぢから才学をもて当流の聖教を自見して、相伝なき法義を讚嘆し、あまさへ虚言をかまへ、当家の実義をくはしく存知したるよしをまふして、人をへつらひたらせるによりてなり、これ言語道断の次第なり。(文明8年7月27日)
引用:帖外御文(蓮如上人御文全集)
この御文章によれば、摂河泉和における浄土真宗の門徒の中に、他宗からの流入が増加し、法儀に混乱が生じ、蓮如上人が厳しく正そうとされているのが伺えます。
このような時期に、法円や地元の有力な親鸞学徒は、蓮如上人のご教導に基づき、人々に親鸞聖人の正しい教えを伝えられました。
浄照坊の創設
法円は、蓮如上人が大阪御坊を建立するにあたり、その近くに通寺を設けました。
この通寺は、もとは慈願寺の1つとされていましたが、後に別寺院となり、浄照坊となりました。
なぜ浄照坊を設けたのか、理由は明らかになっていませんが、蓮如上人が京都や出口御坊から堺に下向する時、石山本願寺(大阪御坊)付近で、休息することが必要であったなど、蓮如上人のための休息所・宿泊所として設けられたのではないかと考えられています。
石山本願寺の建立の際には、法円も久宝寺からすぐに北上して来ていることからも、常に蓮如上人の側にいようとしていたことがわかり、「浄照坊来歴」では法円を「常髄給仕の御直弟子」と書かれています。
法円坂の由来
大阪には、「法円坂」と呼ばれる地名があります。
法円がどこに通寺を設けたのか、明らかになっていませんが、一説によると、今日の法円坂あたりであり、その法円坂の名称は、久宝寺の法円に由来する、とも言われます(参照:『大阪と町名』)。
いつから法円坂と呼ばれるようになったのかについて明確にはなっていませんが、昔の親鸞学徒(門徒衆)の間で広まり伝わってきたのかもしれません。
編集後記
蓮如上人は、法円のように厚い信頼関係のある親鸞学徒とともに、大阪で布教されていたことがよくわかります。
また当時は親鸞聖人の教えが大阪で広まったと同時に、間違った教えも広まり、ご苦労されていたこともわかりました。御文章3条目12通(宿善無宿善)にも同様のことが書かれています。
善知識にあうことも
引用:浄土和讃
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
浄土真宗親鸞会大阪会館で、お互いにどのように仏法を聞いたのかを話しながら、正しく教えを学ばせていただきましょう。
また法円の息子、法光については、こちらの記事をお読み下さい。
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