今回は蓮如上人が晩年、病床の中で仰った2つのお言葉について、紹介します。
思い通りになったこと、ならなかったこと
蓮如上人は、次のようにおっしゃいました。
蓮如上人御病中に仰せられ候ふ。御自身何事も思し召し立ち候ふことの、成りゆくほどのことはあれども、成らずといふことなし。人の信なきことばかりかなしく御なげきは思し召しのよし仰せられ候ふ。
出典:『御一代記聞書』
意訳:蓮如上人はご病気中に仰いました。「私が何かをやろうと志したことで、たいてい実現しなかったことはない。しかし、人々の信心がないことばかりが、悲しくて嘆かわしく思っている」と仰せられました。
これは蓮如上人がお亡くなりになる前の病床でのお言葉です。
最初に、「御自身何事も思し召し立ち候ふことの、成りゆくほどのことはあれども、成らずといふことなし」と、あらゆる事が自分の思い通りに成就したと言われたのは、後になって人々の信心のことだけが思い通りにならないと言われるためです。
「何事も思い通りになる」と言われた中で、たとえば大きな出来事をあげるなら、浄土真宗の再興、吉崎御坊の建立、山科御坊の建立、大坂御坊の建立などがあげられます。
親鸞聖人の教えを伝えるに当たり極めて重要なことを、思い通りに成就されましたが、日夜心を砕き、片時も忘れずに願っておられたことは、私たちが真実の信心を獲得することばかりでした。
人々が真実の信心を獲ることが思い通りにならないため、『人の信なきことばかりかなしく御なげきは思し召し』とあります。
蓮如上人が教えてくださったことに欠けているところはなく、蓮如上人のご苦労が足りないというわけではありません。
ただ、教えを聞く人が「耳慣れ雀」のようになり、御法話を聞かせていただいても「いつものお話だ」と真剣に聞いていません。
後生の一大事を自分ごととして聞く者がいないから、蓮如上人が心を砕いてご説法なされても、思い通りに伝わらず、真実の信心を獲られないのです。
蓮如上人のご生涯は、ただ人に真実の信心を獲させたいというお気持ち以外には、何もお持ちではありませんでした。
お亡くなりになる前年の冬に書かれた御文章(大坂建立の章)には次のように書かれています。
あわれあわれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし
出典:『御文章』4帖目15通
意訳:不憫だなあ、命のあるうちに、みなみな信心決定してもらいたい。終日思い続けているのは、そのこと一つである。「宿善まかせ」とは、よくよく知りつつも、そう念ぜずにはおれないのだ
阿弥陀仏の救い(信心決定)を「宿善まかせ」と仰せになっています。
病気になれば医者まかせ、船に乗れば船頭まかせ、飛行機に乗ればパイロットまかせといわれ、最も大事なものに「まかせ」といわれるのです。
「『信心決定は、宿善の有無によって決する』と重々分かってはいるが、それでもどうか早く信心決定してもらいたいと願わずにおれないのだ。信心を獲ることは人間の言動のコツや技術でどうにかなることではないことは分かっているが……」というやるせない心を、吐露されておられるのです。
功成り名遂げて身退く
また続けて、御一代記聞書には次のように仰っていたと記されています。
おなじく仰せに、なにごとをも思し召すままに御沙汰あり。聖人の御一流をも御再興候ひて、本堂・御影堂をもたてられ、御住持をも御相続ありて、大坂殿を御建立ありて御隠居候ふ。しかれば、われは「功成り名遂げて身退くは天の道なり」といふこと、それ御身のうへなるべきよし仰せられ候ふと。
出典:『御一代記聞書』
意訳:同じく蓮如上人がおっしゃいました。「何事も私は思い通りに実現した。浄土真宗も再興し、山科本願寺に本堂や御影堂も建て、住職の位も実如に譲り、大坂御坊を建立して隠居した。それゆえ、私は老子の言う『功成り名遂げて身退くは天の道なり(功績を立て、名声を得たら身を引くのが自然の道理である)』という言葉は、まさに私のことである」
このお言葉は、あらゆる事が思い通りに成就したので、老子の言葉にある「功成り名遂げて身退く」というのは自分のことだと、蓮如上人ご自身が仰ったことです。
蓮如上人は浄土真宗が衰退していることを、幼い頃から心を痛めておられました。
そのため多くの困難も厭わず、今日では想像もできないようなご苦労をなされたことで、以前にも増して多くの人に親鸞聖人の教えが伝わりました。
蓮如上人が66歳の時、文明12年(1480年)3月28日に山科の御影堂が上棟し、同年11月8日の夜には大津近松顕証寺から親鸞聖人の御真影を移されました。
68歳の時、文明14年(1482年)に阿弥陀堂を建立し、75歳になった延徳元年(1489年)に、実如上人へ住職の位を譲り、隠居されました。
そして明応5年(1496年)の秋には、82歳で大坂御坊を建立されました。
実に功績を立て、名声を成し遂げたと仰っても、過言ではありません。
それならば、ご自身は完全に隠居して、楽に余生を楽しまれても良かったはずでした。
しかし実際には、蓮如上人は私たちに真実の信心がないことを日夜心配し嘆かれて、明応5年まで、大坂、富田、堺、山科といった地域を何度も往復しご教導くださっています。
住職の座は譲られましたが、常に動き続けておられました。
蓮如上人のご隠居後のご活躍について、こちらの記事もお読みください。

蓮如上人はお亡くなりになるまで、真実の信心を獲させたいと願って一日も休まれることはありませんでした。
編集後記
蓮如上人が昼夜を問わず、私たちのことを案じてくださっていることがよくわかるお言葉です。
お言葉では隠居したと仰っていても、実際は、お亡くなりになるまで阿弥陀仏の本願を伝えようと日夜ご苦労なされています。
蓮如上人のご苦労がなければ、私たちは阿弥陀仏の本願を聞かせていただくことはできませんでした。
蓮如上人のご苦労を感謝し、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。