今回は、大阪の浄土真宗の礎を築いた「草分け」とも言えるお寺「松谷の照曜山光徳寺(しょうようざんこうとくじ)」の俊円について紹介します。光徳寺が、どのようにして大阪の特に河内地域における浄土真宗の拠点となったのか、俊円の活躍について紐解きます。
光徳寺の始まりと焼き討ち
光徳寺の歴史は、平安時代の永延二年(989年)、比叡山延暦寺の法円が、円融天皇の勅願により河内の雁多尾畑(かりんどおばた)という地に一坊を建立したのが始まりです。当時は「東広山 照曜峰寺」という、天台宗の寺院でした。
天皇の勅願ともあり、重要な寺ではありましたが、その平穏は長くは続かず、天永四年(1113年)、当時対立していた比叡山延暦寺(北嶺)と奈良の興福寺(南都)との争いに巻き込まれ、照曜峰寺は興福寺の僧兵によって焼き払われ、一度廃絶してしまいます。
若き僧侶による再興
焼き討ちから100年以上、寺は荒廃したままでした。
しかし安貞二年(1227年)、俊円(しゅんえん)という僧侶により、再興が果たされます。
俊円は、武蔵国の長官であった武蔵守・藤原範俊の次男として元久二年(1205年)に生まれ、わずか8歳で出家して滋賀の天台宗円城寺(三井寺)で学びました。
高い地位と人脈をもち、とても秀才だったと考えられています。
寺伝によれば、寺の再興に乗り出した当時24歳だった俊円は、奈良にある信貴山(しぎさん)の毘沙門天に熱心に祈りを捧げました。すると夢の中に毘沙門天が現れ、このように告げたと言います。
照曜法地高々妙(照曜の法地は高くして妙なり)
仏智光徳明々朗(仏智の光徳は明るくして朗らかなり)
光闡道教利群生(ひかりに道教を闡き、群生を利し)
護念常仏念信者(常に仏を念ずる信者を護念せん)
これは、俊円が行くべき場所を示す偈(げ)でした。この出来事がきっかけとなり、俊円は荒廃していた照曜峰寺を再興し、後堀河天皇から、寺の名前を夢のお告げにちなんで「照曜山 光徳寺」とするよう勅書を賜り、改名されました。
再建された本堂は雁林堂と言われ、地名の雁多尾畑(かりんどばた)は、この雁林堂から起こったものとされています。
信貴山は、聖徳太子が物部守屋を討伐する際にこの山で戦勝祈願をしたところ、毘沙門天王が現れ、必勝の秘法を授かったと伝えられています。山内には聖徳太子にまつわるお堂や伝説が数多く残っています。
大阪・浄土真宗の夜明け!俊円は親鸞聖人との出会い
俊円は円城寺で出家したことは先述しましたが、円城寺は比叡山延暦寺とは長年激しいライバル関係にありました。
しかし俊円は、比叡山延暦寺の安居院(あぐい)にいた聖覚法印に従い、浄土門を学びます。ここから俊円が、肩書や立場にとらわれず、真実の教えを学ぼうとする真摯な姿勢がわかります。
聖覚法印については以下の記事もお読みください。

天皇の勅命で寺院を再興した俊円は、当時では十分すぎるほどの地位を確立し、その後は安泰な生活が待っているはずでした。
しかし俊円は、「後生の一大事」を解決する道は、聖道門にはなく、浄土門にあるのではないかと気づきはじめたのです。
そして真仮の水際を説く、真の善知識を求め続けました。
すべての人が救われる教えはないかと探し続け、ついに因縁が熟し、俊円は親鸞聖人に出会います。
親鸞聖人の教えを聞いた俊円は、これこそが真実の教えだと確信し、すぐに親鸞聖人の直弟子となったのです。
俊円は松谷の「仏念坊信乗」と改名し、光徳寺を天台宗から浄土真宗へと改宗しました。
当時、修行しなければ救われないと教える仏教が大半の中で、老若男女をえらばずすべての人を救う他力信心を説く浄土真宗へ大転換でした。
これは、河内の地、ひいては大阪に、初めて本格的な浄土真宗の聞法道場が誕生した瞬間とも考えられています。
親鸞聖人がいかに信乗(俊円)を信頼していたかは、直筆の書物などを授けたとされることからも伺えます。
親鸞聖人が84歳であった1256(建長8)年に書かれた『唯信鈔文意』について、室町時代の古写本(光徳寺本)が光徳寺に残っていることからも、親鸞聖人との強いつながりがあったことがわかります。
国の重要文化財「梵鐘」が語るもの
光徳寺には、俊円が宗旨替えした翌年、寛喜元年(1229年)に作られた梵鐘が、国の重要文化財として今も大切に保管されています。この鐘に刻まれた銘文の最後には、はっきりと「南無無量寿仏」(南無阿弥陀仏)の六字名号が記されています。

1229年頃、親鸞聖人は57歳でまだ関東におられましたが、光徳寺の俊円は聖人の教えを河内の地に伝えるため、浄土真宗の寺院として新たな一歩を踏み出していました。
俊円はその後、72歳でその生涯を閉じるまで、この地で教えを弘めています。
光徳寺は、河内における浄土真宗の草分け的な存在であり、その礎を築いた俊円の功績は、非常に大きいものだったと言えます。
編集後記
親鸞聖人の御在世の時代にはまだ、大阪で親鸞聖人の教えを求める人はほんの一握りだったと考えられています。
しかし大事なのは、教えを聞いている人の数ではありません。
俊円は周囲の環境に左右されることなく、真実を見極めることに命がけでしたでした。
私たちは、80年ないし100年の人生しか目に入りませんが、仏様の眼から見たら、一瞬の人生です。
しかしその一瞬の人生で、未来永劫の浮沈が決まる。
俊円は、親鸞聖人の教えと出会い、その喜びから大阪の人たちに真実を伝えていたのです。
親鸞聖人は、次のように教えておられます。
ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は、行証久しく廃れ、浄土の真宗は、証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路をわきまうることなし
引用:『教行信証後序』
意訳:今日の仏教は、まったくすたれきっている。寺も僧もたくさんいるが、仏教のイロハもわからぬ者ばかり。儒教をやっている者も多いが、正道邪道のケジメさえもわかってはいない。浄土の真宗のみが盛んではないか
真実の教え・阿弥陀仏の本願でなければ誰一人救われません。
先輩の親鸞学徒が伝えてくだされた親鸞聖人の教え、阿弥陀仏の本願を、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で、真剣に聞かせていただきましょう。