三首の和歌の落し文と佛照寺教光の改心

今回は、茨木市にある佛照寺の教光と蓮如上人について紹介します。

以下の記事の続きになります。

目次

蓮如上人の来訪

文明9年(1477年)の秋、蓮如上人は自ら摂津茨木の当時佛光寺派であった佛照寺を訪問します。

この時蓮如上人は佛照寺に参詣した際、寺宝の親鸞聖人の御影(肖像画)に自ら賛を書き添えました。

この「御影に着賛する」という儀礼は、本願寺法主が直々に門末寺院の由緒を認め、その正統性を保証する意味を持っていました。

蓮如上人が親鸞聖人の肖像に記した筆墨は、佛照寺が正統な親鸞聖人の流れを汲む道場であることを公に示すものであり、蓮如上人も重要な寺だと認めておられたことを意味します。

しかし蓮如上人が目にしたのは荒れ果てた寺の姿でした。一方で住まいである庫裏は綺麗になっています。

その荒廃の裏には、意外な事実がありました。

摂津の金融家

室町幕府の最高行政機関である政所が発行した公文書『政所賦銘引付』には、寛正4年(1463年)の記録として「佛照寺教光」の名が記されています。

そこには、教光が大館氏という武家に融資を行ったことが記録されていました。

この史料から、佛照寺が地域の武士階級を相手に金融業を営む、裕福な寺院であったことがわかります。

当時の寺院が「土倉」や「酒屋」と呼ばれる高利貸し業を営むことは珍しくありませんでした。教光もまた経済力を背景に地域の有力者であったのです。

和歌に夢中な住職

佛照寺はかつて、鎌倉時代の弘長2年(1262年)に親鸞聖人の直弟子である勝光坊西順によって開かれた由緒ある寺院です。

南北朝時代には本願寺第3世覚如やその子の存覚上人が訪れた記録も残っており、当時は「溝杭」と呼ばれて、この地の聞法道場として重要な場所でありました。

しかし教光の時代、寺は本来の姿を失っていました。

金融業で得た富に支えられた教光は、寺の任務である説法よりも、和歌の会や文化的な交遊に心を奪われていたのです。

しかし蓮如上人の巧みなご教導で、教光の心ががらっと変わるのです。

三首の和歌の落し文

佛照寺は、蓮如上人がよくおられた出口御坊からほど近い場所にありました。

出口御坊については以下をお読みください。

門徒の貞吉が、祖母の法事の説法を佛照寺の住職にお願いしようと訪ねてきました。

貞吉: 「実は今度、うちのばあさんの法事なので、ご住職に説法をお願いしたいのじゃが…」

お弟子: 「そ、それは……弱りましたな」

貞吉: 「え、やはり」

お弟子: 「はい、何でも連歌の会があるとかで、明日よりしばらく京の都へ出かけられます。」

貞吉: 「ご住職の和歌好きにも困ったものですな…」

その頃、当の教光は庫裏で上機嫌。 良昭という人物らと和歌の会を楽しんでいました。

教光: 「ほほほ。愉快愉快。良昭殿、これはまた上出来の歌でございますなあ」

良昭: 「いやー、そういう教光様の歌の出来には、参りましたぞ」

そこへお弟子が「門徒の方が来られています」と呼びに来ますが、教光は「何じゃ、今いいところなのに」と不機嫌です。

教光: 「また、わしに法事をしろと言うのだろう。仏法を説かずとも先祖の残した財で十分生活していけるわい」

お弟子: 「しかし……」

教光: 「説法なんてしないぞ。それより、どいてくれぬか。人が楽しんでいるのを邪魔せんでくれ。そなたには、わからんのじゃ。和歌の奥深さがのう……」

教光は仏法を説く気など毛頭なく、和歌の楽しみを邪魔されたことに腹を立てる始末でした。


蓮如上人の一計

困り果てた佛照寺の門徒たちは、とうとう出口御坊の蓮如上人の元へ相談に訪れました。

ご門徒: 「住職は和歌や連歌に興ずる毎日…そういうことで、仏法を聞かせてくれません」

蓮如上人: 「ううむ。それは困ったのう……何か導く方法はないものか……」

話を聞いた蓮如上人は、思案の末に名案を思いつきます。

蓮如上人: 「よし、和歌を好む者には、和歌で真実を伝えよう」

蓮如上人: 「そなた、わしが今から書き記すものを、教光がよく通る道端に、わざと落としてくるのだ。うまく狙うのじゃぞ」

ご門徒: 「道端に……ですか? は、はい!」

蓮如上人は、和歌にしか興味がない教光を、その和歌そのものを使って導こうと考えたのです。


道に落ちていた和歌

文明9年(1477年)12月のある日。 教光が「明日の連歌の会の準備をしなくては」と考えながら針の木原という道を歩いていると、道端に一枚の紙が落ちているのを見つけます。

教光: 「何じゃ、これは……おお、和歌ではないか」

教光が拾い上げてみると、そこには三首の和歌が書かれていました。

教光: 「それも3首。どれ、何々……」

ひとたびも 仏をたのむ こころこそ まことの法に かなうみちなれ

つみ深く 如来をたのむ身になれば 法の力に西へこそ行け

法を聞く みちに心の さだまれば 南無阿弥陀仏と となえこそすれ

蓮如

歌の最後には「蓮如」という署名がありました。

教光: 「…………蓮如上人のお歌か」

和歌には絶対の自信を持っていた教光ですが、この三首の和歌に込められた仏法の意味が、彼にはまったく理解できませんでした。


意味が気になり、眠れない夜

自坊の佛照寺に帰ってからも、教光は悩み続けます。

教光: 「分からぬ。どういう意味なのだ」

教光: 「……分からぬ……これは……知りたい……意味が知りたい」

和歌が得意だと自負していた自分が、蓮如上人の歌の意味が分からない。そのことが気になって、一睡もできません。

教光: 「ああ、気になって一向に眠れない!」

ついに教光は寝床から飛び起きます。

教光: 「こうしてはおれん。出口御坊の蓮如上人に尋ねに参ろう」


蓮如上人のご説法

教光は矢も盾もたまらず、夜が明けるやいなや出口御坊を訪ねました。

蓮如上人: 「教光殿、いかがなされた?」

教光: 「上人さま。お恥ずかしいことに、この和歌の意味がとんと分かりませぬ」

蓮如上人: 「ほほう、どれどれ。これは誰から受け取ったのじゃ?」

教光: 「いえ、たまたま道端で拾いました。どうか、教えていただけませんか」

すべては蓮如上人の計画通り。教光の訪問を、蓮如上人は「よろこんで」と温かく迎え入れます。

蓮如上人: 「もちろんですよ。よくお聞きくだされ」」

蓮如上人は、御文章四帖目四通に、この三首の歌とともに次のように記されています。

わが身ながらも本願の一法の殊勝なるあまり、かく申しはんべりぬ。この三首の歌のこころは、はじめは、一念帰命の信心決定のすがたをよみはんべり。のちの歌は、入正定聚の益、必至滅度のこころをよみはんべりぬ。つぎのこころは、慶喜金剛の信心のうへには、知恩報徳のこころをよみはんべりしなり。

出典:『御文章』(四帖目第四通)

意訳:我ながらも、阿弥陀仏の本願というただ一つの教えが、あまりにも殊勝なので、このように申し上げたのです。この三首の歌の意味は、まず最初の一首では、「一念に阿弥陀仏に帰命し、信心決定したすがた」を詠みました。次の歌では、「入正定聚の益、必至滅度のこころ」を詠みました。その次の心は、「慶喜金剛の信心のうへには、知恩報徳のこころ」を詠んだものなのです。

蓮如上人: 「よいかな。最初の歌(ひとたびも~)は、『一念帰命の信心決定』のすがたを詠んだものです。そして現在はただ今、苦しみ悩める人生を明るく楽しい、『往生一定』の人生にしてやろう、というお約束でもあるのです。阿弥陀仏は、その本願に『われを信じよ、必ず絶対の幸福に助ける』と誓っておられます。そのお約束どおりに絶対の幸福に助かったことを、『他力信心を獲た』とか、『信心決定した』というのです」


教光改心

蓮如上人: 「しかも、阿弥陀仏の救いは『一念』じゃ。『一念』とは『ひとおもい』のこと。阿弥陀仏は、アッという間もない時剋に、我々の苦悩を抜き取り、無上の幸福を与えてくだされるのです。これを宗祖親鸞聖人は、『一念往生』とか『一念の信心』とも仰っています」

蓮如上人は、続けて二首目、三首目の歌の意味も、教光に諄々と説き聞かせました。

阿弥陀仏の本願の真実を深く聴聞した教光は、それまでの自らの所業を深く懺悔しました。

この日を境に、教光は真の仏法者に生まれ変わったのです。

この時、教光が持参した書は『御文章』第四帖の末尾に「路次にてこの書を拾うて当坊へ持ち来れり(道でこの書を拾って蓮如上人のもとへ持ってきた)」という奥書(おくがき)とともに伝わっています。

佛照寺の再興

教光の変化は目覚ましいものでした。教光はすぐに佛光寺派を離れ、蓮如上人のもとで真摯に学び、やがて高弟の一人に数えられるようになります。

『政所賦銘引付』の記録によると、教光は文明15年(1483年)に未返済の融資について取り立てるよう訴えています。

これは、教光が蓮如上人の弟子となった後も金融家としての世俗的活動を完全には捨ててはいなかったことを表しています。

しかし、その活動の意味は大きく変わっています。

私利私欲のためではなく、寺の再建と親鸞聖人の教えを伝える組織の基盤強化のために、経済力を活用していたのです。

文明15年(1483年)、教光は自らが荒廃させてしまった佛照寺の再建に着手しました。傷んだ堂宇を修復し、荒れた境内を整え、散り散りになっていた門徒に声をかけて回りました。

必要な寺務を素早く正確にこなし、阿弥陀仏の本願を伝え、人々を導く教光の姿は、かつての放蕩の日々からは想像もできないものでした。

蓮如上人は佛照寺を茨木地域における布教の拠点として位置づけ、教光は期待に応えて教線の拡大に尽力しました。

茨木周辺の人々の間に浄土真宗の教えが広がり、多くの親鸞学徒が佛照寺で聞法するようになりました。

教光は、佛照寺中興の祖として位置づけられています。

編集後記

蓮如上人は教光を批判するのではなく、彼の興味関心である和歌を通じて真実を伝えました。

徹底して「相手の立場に立った教導」をされたことで、多くの人に真実が伝わり、また蓮如上人を多くの人が慕っていくのでした。

また、教光はこれまで身につけた世俗的な能力を寺の再建と教えを広めるために活用したことで、大阪の地に親鸞聖人の教えが伝わりました。

蓮如上人の巧みなご教導に感謝し、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。

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