勝光坊西順と親鸞聖人

今回は、茨木市にある佛照寺の開基、勝光坊西順について紹介します。

目次

武士から僧侶へ

勝光坊西順は、鎌倉幕府の御家人であった佐々木盛綱の子・佐々木俊綱として生を受けました。

父の盛綱は鎌倉幕府に仕える武将であり、承久3年(1221年)の承久の乱では幕府方として参戦しています。

俊綱自身も若き武士としてこの戦乱に関わったと伝えられています。

承久の乱の後に俊綱は世の無常を強く知らされ、近江国長浜城主の地位と所領を捨て、仏門へと進みました。

嘉禄元年(1225年)頃、彼は高野山金剛峯寺に登り、修行生活に入ります。名を勝光と改め、「勝光阿闍梨」と名乗り、真言密教の厳しい修行を積みました。

阿闍梨とは、一定の厳しい修行を修めた者にのみ与えられる称号です。勝光がこの名を得たことからも、彼が真剣に修行を重ねていたことがわかります。

しかしいくら修行をしても、さとりを開くことができず、自力仏教の限界を痛感していました。

そして一通りの修行を終えたあと、勝光は、関東に赴くことを決意します。

かねて比叡山で修行し法然上人のもとに赴いた親鸞聖人のお名前を耳にしていたからでしょう。

真実の仏教を伝える善知識を、探さずにはいられなかったのです。

親鸞聖人との邂逅

仁治2年(1241年)頃、高野山での修行を終えた勝光は、関東へと下向し、常陸国稲田(現在の茨城県笠間市稲田地区)に赴きました。

そこに滞在していた親鸞聖人と対面し、初めて阿弥陀仏の本願の真意を明らかに聞かせていただきます。

勝光は、ついに真の善知識に遇えたことを喜び、すぐに親鸞聖人の弟子となり、「西順」という法名を賜りました。

以後、親鸞聖人のそばで教えを受け続け、親鸞聖人が関東から京都へ帰る際には同行し、再び近畿へと戻りました。

佛照寺の創建

弘長2年(1262年)、勝光坊西順は現在の大阪府茨木市目垣に光明山佛照寺を開きました。

「光明山」の山号は阿弥陀如来の智慧の光を表します。

勝光坊西順は、親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の本願を広めるため、この地に道場を構えました。

後に寺院として整備され、茨木市における浄土真宗布教の最初期の拠点となったと考えられます。

後年、覚如上人や存覚上人が北陸布教の途上で立ち寄ったという記録も残っており、聞法の場所として大切にされていました。

しかし徐々に衰退し、再興されるのは蓮如上人の時代となります。

続きの内容は、以下を御覧ください。

編集後記

真言密教を学んでいた勝光坊西順が、親鸞聖人の教えに帰依したのは、精一杯修行し、自力聖道仏教の限界を感じていたことと共に、親鸞聖人が最も阿弥陀仏の本願を明らかにされていたからでした。

勝光坊西順が大阪で聞法道場を開かれたおかげで、今の大阪の人達に親鸞聖人の教えが伝わる礎となりました。

先輩の親鸞学徒のご苦労に感謝し、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で、親鸞聖人の教えを聞かせていただきましょう。

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