浄土真宗はやばい?非常識?親鸞聖人の真実の教えとは

浄土真宗は、今日、日本仏教の中で最大宗派です。

その浄土真宗が「やばい」という声を耳にすることがあります。

「やばい」と言われる理由は、浄土真宗を開かれた親鸞聖人が、常識では考えられないことを教えられているからです。

「お通夜・葬儀が適当でやばい」など浄土真宗の法事法要の作法について「やばい」とも言われますが、「親鸞聖人の教え」が「やばい」と言われることが多いので、「教え」について紹介します。

本記事では、浄土真宗が「やばい」と言われる教えを紹介し、「真実」と言われる教えの内容を解説します。

仏教他宗派と、浄土真宗の教えの違いを知ってください。

このような人が対象です。
・浄土真宗と他の宗派の違いが知りたい人
・浄土真宗の特徴を知りたい人
・浄土真宗に少しでも関心がある人
・浄土真宗の主な教えを知りたい人

目次

占いや祈祷による現世利益を否定

仏教他宗派と異なり、浄土真宗では、占いや祈祷による現世利益を徹底的に否定しているため、非常識といわれます。

現世利益とは、修行や祈祷などをすることで、健康の増進、金銭的な豊かさ、事業の成功、家庭の安泰、災難からの守護、学業の成就、恋愛や結婚成就といった、幸福を得ることです。

多くの仏教宗派では、修行や祈祷による現世利益を認めていますが、浄土真宗はこれを否定し、因果の道理に基づかない教えを一切廃しております。

.江戸時代の儒学者・太宰春台は、以下のように浄土真宗を評価しています。

「浄土真宗の門徒は弥陀一仏を信ずること専らにして、いかなることありても祈祷などすることなく病苦ありても呪術、お守りをもちいず。みなこれ親鸞氏の力なり」

引用:聖学問答

意訳:浄土真宗の信者は、阿弥陀仏ただ一仏を信じることに専念しており、どのような状況であっても祈祷などは行いません。病気や苦しみがあっても、呪術やお守りを使うことはありません。これらはすべて親鸞聖人の教えの影響によるものです。

親鸞聖人は、徹底して迷信を廃し、お釈迦様の教えを明らかにされました。

親鸞聖人がどのように迷信を破られているのか、詳しくはこちらの記事をお読みください。

次に、親鸞聖人が葬式を大事にしていなかったという非常識な内容を紹介します。

葬式を否定

仏教他宗派では、大事な人が亡くなったとき、葬式や法事を重要視します。

しかし浄土真宗では亡くなった人の葬儀を大事にすべきではないと教えられるので、非常識だとみなされます。

本願寺3代目法主、覚如上人が次のように教えられています。

「親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」と云々。

これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。

これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし

引用:『改邪鈔』

意訳:いつも言っていることだが、親鸞死ねば、加茂川に捨てて魚に食べさせてくれよ。よく言っておくからな。魂の解決のできた者には、死骸はセミの抜け殻じゃ。何の用事もない。肉体の葬式や墓に力を入れるよりも、魂の葬式こそ、急がねばならない。

これは、浄土真宗では遺体の後始末や肉体の葬式よりも、魂の解決・仏法の信心を重視しなければならない、という御心です。

覚如上人が「葬喪を一大事とすべきにあらず」と言われた理由について詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

「魂の葬式を急ぎなさい」「仏法の信心を重視しなさい」ということは、生きている今、絶対の幸福に救われなさいということです。

生きている今、絶対の幸福に救われる

仏教他宗派では、生きているときに修行することで、または、念仏さえ称えていれば、死んだら救われると教えます。

しかし親鸞聖人は「現在生きている今、絶対の幸福に救われなさい」と教えられました。

現在、生きている今、絶対の幸福に救われると教えられるのは、親鸞聖人しかおられません。

平生業成の意味

親鸞聖人の教えを一言で言えば「平生業成(へいぜいごうじょう)」です。

この四字の意味が分かれば、親鸞聖人の教えのすべてが分かります。

「平生」とは、死後ではない、生きている現在のこと。

「仏教」と聞くと「葬式や法事のときに用事があるもの」と思われがちですが、そうではありません。

“生きている今”を最も重視されているのが浄土真宗です。

「業」とは「人生の大事業」、すなわち「人生の目的」のことです。

それは「絶対の幸福」になることだ、と親鸞聖人は教えられました。

「成」は「完成する」「達成する」ということです。

ですから、「平生業成」とは、

「どんな人も、生きている今、絶対の幸福になれる。だから、あなたも早く絶対の幸福に救われなさいよ」

と教え勧められた親鸞聖人の教えの一枚看板なのです。

詳しくは、以下をお読みください。

では、どのようにしたら、生きている今、絶対の幸福に救われるのでしょうか?

その答えは、「他力本願」にあります。

他力本願について

仏教他宗派では、自分の力で修行した功徳で仏の救いにあずかろうとか、自分の称える念仏の功徳によって往生しようとします。

これを自力の仏教といいます。

一方、浄土真宗では「他力によって救われる」とか、「他力本願によらなければ真の幸福に絶対なれない」と教えられます。

そのため浄土真宗は「他の力にすがらなければ生きてゆけないような無気力な教え」と誤解され自分の力をたよらない非常識な教えと思われています。

企業の新聞広告に、「他力本願から抜け出そう」という見出しが、大きく掲載されたことがありました。

「他力本願」と聞けば、“他人まかせ主義”のことだと思う人が多いでしょう。

プロ野球の勝敗の報道で、相手の負けによって優勝が決まりそうな時に「他力本願で優勝を狙う」などと書かれることもありますね。

このように、「他力本願」の意味を、“他人のふんどしで相撲を取る”とか、“人の提灯で明かりを取る”ことと同類と考える人が多いのは、「他力本願」の「他力」を、「他人の力」と理解しているからでしょう。力のない人が、力のある「他人」に助けを求める依存心を表す言葉として使われています。

しかし『広辞苑』や『百科事典』にも、そのような「他力本願」の意味は記されていません。もともと仏教用語である「他力本願」とは、どんなことでしょう。「他力」の「他」は何を指すのかを知れば、みるみる誤解は解消します。

「他力」の意味 親鸞聖人が『教行信証』に明言

「他力」の意味について、親鸞聖人の主著『教行信証』に、

「他力と言うは、如来の本願力なり

引用:教行信証

と書かれています。「如来」とは、「阿弥陀如来(阿弥陀仏)」のことですから、「他力」とは「阿弥陀如来の本願力」のこと。「阿弥陀如来の本願力」を、「他力」とも、「他力本願」ともいわれるのです。

「他力」の「他」は、阿弥陀如来のことに限りますので、「他力」を「他人の力」と思うのは、誤解であることが、まずハッキリします。

他力本願について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。

また他力本願を説く浄土真宗は「信心一つで救われる」と教えられます。

信心一つで救われる

仏教他宗派は、たとえば法華経の修行によって救われるとか、念仏さえ称えれば救われる、と言い、仏教の救いにあうためには、修行や、念仏を強調します。

しかし親鸞聖人の教えは、「唯信独達の法門」と言われ、「他力の信心一つで絶対の幸福に救われる」と教えられます。

行ではなく、信心を強調されるところが、他宗派の仏教と異なり非常識だと言われます。

親鸞聖人の教えられた信心は、世間で言われるような信心ではなく、他力の信心のことです。

世間の信心

世間でいう信心は、自分の心で何かを信じることです。そのため、信心が要るのは弱い人間だけで、強い者には必要ないと思っている人もいますが、とんでもない誤解をしています。

神や仏を信じるだけが信心ではありません。

「信じる」とは、言い換えれば「たよりにする」「あて力にする」ということです。

金、地位、名誉や財産があるから大丈夫だと思ったり、健康や家族をたよりにしているのも、心でそれらを信じている信心です。

お金の貸借や約束も、相手を信じてのことなので、誰もが何かを信じなければ一日たりとも生きてはいけません。

しかし、そうした信心には、完成もなければ卒業もありません。どれだけ深く信じても、これで決勝点、ということはありえない。

ゴールなき円形トラックを走り続けるように、死ぬまで求め続けるしかない信心なのです。

他力の信心とは

ところが親鸞聖人が教えられた信心は、「信心決定(しんじんけつじょう)」「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」と言われるように、「決定」「獲得」決勝点がある信心であり、完成した、卒業した、ということのある信心です。

また、世間でいう信心は、疑いがあるから信じているのであって、疑う余地のないことならば、信じることも不要になります。

しかし、親鸞聖人は、「真(まこと)に知んぬ」「今こそ明かに知られたり」とハッキリしたこと、「仏願に疑心有ること無し」とツユチリの疑いもなくなったことを、信心とも、他力の信心とも仰っているのです。

浄土真宗中興の祖・蓮如上人は、浄土真宗の真実の宝について次のように仰っています。

当流の真実の宝と云うは、南無阿弥陀仏、これ、一念の信心なり

(引用:『蓮如上人御一代記聞書』)

当流とは、親鸞聖人の教え、浄土真宗のこと。

つまり「浄土真宗の真実の宝とは、南無阿弥陀仏であり、『一念の信心』のことである」と教えられているのです。

他力の信心について詳しくは、以下をお読みください。

ここで、浄土真宗でよくいわれる念仏の誤解について、説明します。

念仏で救われるの誤解

浄土真宗は「念仏さえ称えれば救われる」教えだと誤解されています。

浄土真宗の僧侶でさえ「念仏一つで救われます」と発信している人もいますので、一般の人たちが誤解するのは無理もありません。

浄土真宗中興の祖と言われた、蓮如上人は、『御文章』に幾度もその誤りを破っておられます。

されば世間に沙汰するところの念仏というは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏と称うれば助かる様に皆人の思えり。それは覚束なきことなり

引用『御文章』(三帖二通)

しかれば、世の中に人のあまねく心得おきたるとおりはただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり

引用:『御文章』(三帖四通)

念仏を称えて助かろうと思っているものを、自力の念仏といいます。

親鸞聖人は、そのような念仏では救われないことをご教示なされています。

真実信心の称名は

弥陀廻向の法なれば

不廻向となづけてぞ

自力の称念きらわるる

引用:親鸞聖人『正像末和讃』

あくまで救われる道は、他力の信心一つしかないのです。

では、どのようにしたら他力の信心を獲られるのでしょうか。

それは「仏法は聴聞に極まる」と教えられ、阿弥陀仏の本願を聞くことが最も大切になります

聞の宗教

浄土真宗は「聞の宗教」といわれます。

世界には様々な宗教がありますが、大別すると修行の宗教、瞑想の宗教、祈祷の宗教などがあげられるでしょう。

浄土真宗は、それらのどの宗教とも異なり、「聞」の宗教といわれ、真剣な聞法を勧める点で、非常識な教えだと思われています。

この「聞」についてお釈迦様は、お経に

「設い大火有りて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし」

引用:大無量寿経

と教えられ、また親鸞聖人は『大無量寿経』にお釈迦様が説かれていることを、

たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

引用:『浄土和讃』

と教えられ、聞法を勧められています。

これを受け、蓮如上人は、私たちにわかりやすいように

火の中を 分けても法は 聞くべきに 雨風雪は もののかずかは

蓮如上人

仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事浅ましきことなり

引用:『御一代記聞書』

只仏法は聴聞に極まることなり

引用:御一代記聞書

と教えられました。

いずれも真剣に、仏法を「聞」けとのお勧めであることは明らかです。

この聞法について詳しくは、「なぜ生きる2」のご著書に解説がありますのでお読みください。
(画像をクリックすると出版社の書籍紹介ページへ遷移します。)

なぜ生きる2

何を「聞け」と勧められているのかというと、阿弥陀仏の本願です。

では阿弥陀仏の本願の救いとは、どのようなものでしょうか。

煩悩を持ったままで救われる

仏教他宗派では、厳しい修行によって、煩悩をおさえ、さえぎり、断つことが、仏の救いの条件と言われます。

しかし親鸞聖人は、阿弥陀如来に救われても、煩悩はなくならないと言われており、次のように教えられます。

能く一念喜愛の心を発せば、煩悩を断ぜずして涅槃を得

引用:正信偈

意訳:阿弥陀如来に救い摂られたならば、欲や怒りの煩悩あるままで、往生一定の絶対の幸福になる

人間は、「煩悩具足の凡夫」と言われます。煩悩のかたまり、煩悩に目鼻をつけたような存在である。ということです。

また「煩悩成就の凡夫」(煩悩によってできている人間)、「煩悩熾盛の衆生」(煩悩が激しく燃え盛っている人間)とも表現される通り、我々は、煩悩を離れては一日も生きてはいけません。

雪ダルマが雪からできているように、我々から煩悩を取り去ってしまえば、人間の存在そのものがなくなってしまいます。

「阿弥陀仏は煩悩具足の凡夫を必ず絶対の幸福に救うと誓われている」と親鸞聖人は教えてくださっています。

煩悩とはなにか、煩悩あるがままで救われるとはどういうことか、詳しくは以下の記事をご覧ください。

また煩悩具足の者は「悪人」とも言われ、親鸞聖人の教えを悪人正機の教えと言われています。

悪人正機について

仏教他宗派では、煩悩を抑え、善行(修行)ができる人、つまり善人こそが仏様に救っていただけると教えられます。

しかし、浄土真宗は「悪人正機」と言われ、「悪人正機」とは、悪人こそ救うのが阿弥陀仏の本願だということです。

善人が救われるのは理解しやすいですが、悪人こそが救われると教えられる点で、常識では考えられないことを親鸞聖人が教えられています。

法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいますが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼からごらんになれば、全ての人間は悪人だと、仏教では教えられます。

「悪人正機」の「悪人」とは「全ての人」のことであり、人間の代名詞です。

十方衆生(全ての人間)は「まことの善は一つもできない、悪しかできない極悪人」と見抜かれ、その十方衆生を必ず絶対の幸福に救うというお約束が、阿弥陀仏の本願です。

阿弥陀仏の本願に救われた時、「私は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない極悪人でした」と知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさいよと親鸞聖人は教えられました。

この悪人正機は、しばしば誤解され、「阿弥陀仏は悪人をお目当てとして助けてくださるのだから、悪人がお好きなのだ。だから悪いことをすればするほどいいのだ」と思う者まで現れました。

そんな聞き誤りを「造悪無碍」といい、親鸞聖人が還暦を過ぎて京都に戻られてから、関東にこのような極論に走る者が増えました。

深く嘆かれた親鸞聖人は、何度も手紙でその誤りを正し、厳しく戒められています。

悪人正機について更に詳しく知りたい方は、以下の記事をお読みください。

親鸞聖人は、煩悩をなくせず、悪しかできない者が救われる教えを明らかにするために、肉食妻帯を断行されました。

肉食妻帯について

お釈迦様は、当時、僧侶に250戒、尼僧に500戒の戒律を定めました。

戒律は、団体の規則のようなもので、必ず守らなければなりません。僧侶や尼僧は、結婚が禁止されており、これは「梵行戒」や「不淫戒」と呼ばれる戒律に基づいています。

親鸞聖人は31歳で結婚(妻帯)なされました。

今日なら「おめでたいことだ」で終わりますが、当時はそうはいきませんでした。

なぜなら親鸞聖人ご在世当時、僧侶の結婚(妻帯)は固く禁じられており、非常識な行動だったからです。

破戒僧と呼ばれても肉食妻帯を断行された親鸞聖人の真意は?

僧侶の身で公然と結婚された親鸞聖人。実はこれが世界初であり、大事件だったのです。

また親鸞聖人は、「肉食(にくじき)」といい、一般庶民と同じく魚などの肉も食べられました。

肉食は、生き物を殺す罪として僧侶の厳禁事項でした。

中国や韓国、東南アジアの仏教国では、今でも僧侶の肉食妻帯は禁止されています。

そんな中、親鸞聖人は公然と肉食妻帯を断行されました。

世は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなり、親鸞聖人は「色坊主」「堕落坊主」と罵倒され、破戒僧として石を投げられ槍まで突き付けられたのです。

ですから肉食妻帯は、命がけの断行でした。

これは大変なことであり、文豪、夏目漱石は「大改革」と表現し、次のように語っています。

夏目漱石が驚嘆した親鸞聖人の肉食妻帯という大改革

「その時分に、(略)思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行してご覧なさい。どの位迫害を受けるか分からない」

「親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」

引用:夏目漱石『模倣と独立』)

夏目漱石は、親鸞聖人の肉食妻帯の決行を「非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想」と、「非常」という言葉を三回も重ねて驚愕しています。

ここからも、どれほどの大改革であったかをうかがい知ることができるでしょう。

ではなぜ親鸞聖人は、これほどまでの非難を覚悟の上で肉食妻帯なされたのでしょうか。

詳しくはこちらの記事をご覧ください。

阿弥陀仏の本願に救われた人は、恩徳讃の気持ちが起きます。

恩徳讃の内容についても紹介します。

恩徳讃について

浄土真宗ではよく歌われている、恩徳讃についても、非常識なことが書かれています。

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

引用:『恩徳讃』

意訳:阿弥陀如来の洪恩は、身を粉にしても報い切れない。その弥陀の大悲を教えてくだされた方々のご恩も、骨を砕いても済まない。

この親鸞聖人のご和讃は「恩徳讃」といわれ、数あるご和讃の中で最も親しまれているものです。

メロディーが付され、浄土真宗の法要や行事の最後には、必ずといっていいほど歌われてきました。

では、この恩徳讃には、どんなことが歌われているのでしょうか。

それは、絶対の幸福に救い摂ってくだされた阿弥陀如来のご恩と、その救いにあうまで教え導いてくだされた師主・知識(先生)のご恩には、「身を粉に」「骨砕きても」報わずにはおれないという、親鸞聖人の燃える報恩謝徳の心が表されているのです。

困っている時、誰かに助けてもらえば、その恩に報いたいと誰しも思うことでしょう。困っていればいるだけ、助けてもらった喜びは大きく、その恩に報いたい気持ちも強くなります。

例えば、莫大な借金を抱え、にっちもさっちもいかず、夜逃げしようか、心中しようかと思い悩んでいた時、その借金を全部清算してくれる人があれば、その恩は一生忘れられないでしょう。

また、大病を患い、このまま死ぬのかと絶望の時、名医の手術で立ちどころに治ったなら、その医師に、どれだけお礼をしても足りない気持ちになるはずです。

しかしその場合でも、親鸞聖人が仰るような「身を粉にして」「骨砕きて」までも報いたいと思うでしょうか?

身を粉にし、骨を砕けば死んでしまいます。せっかく借金を返せても、病気が治っても、死んでしまえば元も子もない。そこまでして恩に報いたら、助けてもらった意味もなくなってしまいます。

ハッキリとした救い

では、親鸞聖人は大げさなことを仰ったのかというと、そうではありません。

聖人が「身を粉に」「骨砕きても」と仰るのは、阿弥陀仏から賜るご恩が、世間の恩とは全く桁違いの、あまりに広大無辺なご恩だからなのです。

この世も苦しみ、後生も苦患に沈む一大事を抱え、十方の諸仏にも見放され、苦より苦に流転していく私たちを哀み、「我をたのめ、必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのが阿弥陀如来です。

それは、肉体ではなく永遠の生命を、一念で絶対の幸福に救い摂るというお約束です。

そのお約束どおりに助かったことを「信心獲得」「信心決定」といいます。

阿弥陀仏の救いはハッキリしていますから、「真宗宗歌」にも「永久の闇より救われし、身の幸何に比ぶべき」と歌われているのです。

救われてもハッキリしないものなら、恩徳讃の心は起きようもありません。

弥陀に救われれば誰もが、親鸞聖人と同じ恩徳讃の心になります。

恩徳讃について、詳しくは、以下の記事もお読みください。

編集後記

今回は、「浄土真宗がやばい」と言われる教えと、その内容を解説しました。

やばいと言われる理由は、浄土真宗では、仏教他宗派では教えられない、非常識のようにも思える親鸞聖人の教えが、いくつもあるからです。

親鸞聖人は常に以下のように仰っています。

更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり

引用:『御文章』

意訳:親鸞の教えていることは、仏教のほかに珍しいことは何もない。

親鸞聖人は非常識に思えることを言われていますが、お釈迦様の真意を誰よりも鮮明にされた方でした。

親鸞聖人の明らかにされた、阿弥陀仏の本願を、真剣に聞かせていただきましょう。

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