親鸞聖人の教えを固く守り、のちに本願寺の蓮如上人を支える重要な存在となった大阪の古刹、松谷光徳寺。
今回は、親鸞聖人の弟子・俊円の跡を継いだ後継者たちが、いかにしてその教えを広げ、困難な時代を乗り越えていったのか、その激動の歴史を紐解きます。
※親鸞聖人と光徳寺初代・俊円についてはこちらの記事をお読みください。

第二代目・顕円
俊円には実子がいませんでしたが、姉の婿の子である顕円を養子に迎え、後継者として大切に育てました。
第二代を継いだ顕円は、先代・俊円の徳を後世に伝えるため『信乗上人絵伝』を制作。
師であり父である俊円の教えと功績を、絵物語として形に残しました。
顕円は正和2年(1313年)、65歳でその生涯を閉じます。
その後は息子の顕従が乗栄と名乗り、三代目として寺を継承することになります。
第三代目:顕従
顕従は、学問と徳を兼ね備えた名僧として名が知られており、当時、覚如上人のお弟子になっています。
元徳2年9月に「聖徳太子御絵伝」四幅を作成し、さらに現在、寺宝となっている『諸縁探知集』は、著者名はありませんが、顕従の著作と伝えられています。
『諸縁探知集』の内容は、存覚上人の報恩記の内容と非常に似ており、顕従は存覚上人からも教えを学んでいたものと思われます。
70歳で寺を四代目に譲った後も、中津川原(現在の大阪府河南町・千早赤阪村あたり)に西願寺を建立。
永和2年(1376年)に89歳で亡くなるまで、生涯をかけて親鸞聖人の教えを人々に伝え続けました。
第四代目・乗円
第四代・乗円の時代、光徳寺は新たな布教のステージへと進みます。
応永5年(1398年)、乗円はそれまでの山間部から平野部へと活動の場を移し、志紀郡小山村に妙楽寺を建立。妙楽寺には、乗円の門弟の正意が住持しました。
この平野部へ活動の場を広げる一歩が、のちに「河内門徒衆」として大きな勢力に発展する礎となりました。
その後、第五代・乗法、第六代・乗意へと法灯は受け継がれ、来るべき蓮如上人の時代へと繋がっていきます。
第七代目・乗和
本願寺第八世・蓮如上人の時代、河内での布教において光徳寺は不可欠な存在でした。
七代目の乗和は、蓮如上人が河内に来られたときには常に身近で師事していたといいます。
当時、蓮如上人が特に重要な寺として選んだ「御影前出仕の大坊主」四十一ヶ寺の中でも、光徳寺は特に格式高い「上座五ヶ寺」の一つに数えられています。
これは、法主の側近として、いかに光徳寺が蓮如上人から重んじられていたかを示すものです。
永正4年4月に72歳で乗和はなくなりますが、そのあとも護法の精神は引き継がれていきます。
第八代目乗順・第九代目乗賢の護法
享禄5年(1532年)、山科本願寺が日蓮宗門徒や六角定頼の兵から焼き討ちに遭い、大坂の石山本願寺が拠点となりました。
この危機に際し、第八代・乗順はすぐに石山本願寺の近くに光徳寺の支坊を建立。実如上人、証如上人の厚い信頼を得て、相談役として本願寺を支えたとされます。
当時の光徳寺の支坊の形は、本願寺と同じ形だったといいます。
そして第九代・乗賢の時代、ついに織田信長との石山合戦が勃発します。

10年にも及ぶ激しい戦いの末、石山本願寺は敗北し大坂の地を明け渡すことになりました。
しかし石山合戦後、織田信長への開城を経たあとも、光徳寺の門徒たちは豊臣秀吉より大坂残留を許されました(出典:文禄2年の朱印状)。そのまま大坂城のふもとで、経済活動を支えながら、親鸞聖人の教えを大坂の人々に伝え続けました。
光徳寺はこの合戦で多大な功績があったとして、顕如上人より非常に丁重な扱いを受けたと伝えられています。
このように光徳寺の歴史は、親鸞聖人の志が弟子から弟子へと次々と受け継がれ、親鸞聖人の教えを守り続ける護法の歴史でありました。
このように親鸞聖人の教えを守る力となったのは、教義への深い理解もあったと言われます。
河内の学問的中心
光徳寺の重要性は、経済的・政治的・軍事的な役割に留まりませんでした。
寺には経典や親鸞聖人や蓮如上人の著作物が多数集められ、その質と量は日本屈指と評価されています。
中でも特筆すべきは、親鸞聖人の教えの真髄を伝える『歎異抄(たんにしょう)』の貴重な写本(光徳寺本)が所蔵されていることです。
ほかにも、室町時代に書写された『御文章』や唯信鈔断簡。唯信鈔。唯信鈔文意、教行信証延書、正信偈和讚、拾遺古徳伝、浄土真要鈔、御俗姓御文、親鸞聖人絵伝。聖徳太子絵伝。などの文献が光徳寺に残されています。
このような重要なお聖教を筆写し、保存する役割は、教義の純粋性を保ち、次世代の僧侶を育成するために極めて重要な任務を果たしたのです。
こうした学問的な環境が、多くの優れた僧侶を育てました。その一人が、のちに東本願寺の学寮(僧侶の教育機関)で初代講師を務めた恵空です。
まとめ
俊円から始まった光徳寺の歴史は、親鸞聖人の教えを守り抜く「護法」の精神そのものでした。
ある時は平野へと布教の地を広げ、ある時は本願寺と共に戦い、親鸞聖人の教えを全身全霊で伝えてきました。
その原動力の一つが、親鸞聖人の教えへの深い理解でした。
真実の教学は、すればするほど真実が深く知らされ、弥陀の救いに生命がかかってきます。
教えの深さが知らされるほど、遇法の喜びが深くなります。
先輩の親鸞学徒が命がけで伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を、これからも真剣に浄土真宗親鸞会大阪会館で聞かせていただきましょう。
