今回は、蓮如上人が福井県の吉崎御坊から退去され、大坂へ来られた時のことを紹介します。
蓮如上人57歳の頃、福井県の吉崎御坊へ布教の拠点を移されました。
北陸へ行かれたのは、本願寺3代目覚如上人の時代から布教に力を入れられていたことや、水陸交通にも便利で、布教するにあたって非常に優れた土地だったからだと言われています。
吉崎御坊での5年間の布教で書かれた御文章の数は、七十八通にも及ぶなど、熱意あふれたご布教をなされていたことがわかります。
吉崎御坊については、こちらの記事をお読みください。
また浄土真宗親鸞会にも吉崎御坊がありますので、行かれたことがない方は、ぜひ一度足をお運びください。

しかし、戦国の動乱や度重なる吉崎御坊の焼失で、61歳(1475年)の時に、吉崎御坊を離れ大坂へ来られました。
吉崎御坊での蓮如上人の苦難については、こちらの記事をお読みください。

出口御坊光善寺(枚方)建立
吉崎御坊を船で離れられた蓮如上人は、福井の海路若狭小浜に上陸し、丹波路に出て、河内の茨田郡中振の郷・出口に移られました。
この地で親鸞学徒だった御厨石見入道光善が、草庵をひらき、蓮如上人をお迎えし、出口を拠点に近畿地方の布教が本格的に始まります。
この草庵が、出口御坊光善寺となります。
現在の出口御坊は、このあたりにあります。京阪の駅名(光善寺駅)にもなっています。
出口御坊までの経緯は、御文章に書かれています。
去文明七歳乙未八月下旬之比、予生年六十一にして、越前の国坂北の郡細呂宜郷内吉久名之内吉崎之弊坊を、俄に便船之次を悦て、海路はるかに順風をまねき、一日がけにと志して若狭之小浜に船をよせ、丹波づたひに摂津国をとをり、此当国当所出口の草坊にこえ
引用:御文章
出口の村は、もともと9戸の小さい村でしたが、報恩講には近畿をはじめ多くの人が参詣し、門前は市をなしていたと記録があります。
近江国堅田から法住が報恩講へ参詣
出口御坊で行われた報恩講には、現在の滋賀県である近江国堅田からお弟子の法住が参詣しています。
近江の本福寺の三代目にあたります。
法住については以下の動画をご覧ください。
近江でも報恩講がなされていたのですが、あえて蓮如上人のいる大阪まで足を運ばれ、蓮如上人のお話を聞かれていました。
「本福寺由来記」には、「本山の御影は大津の『御本寺様』にあるが、報恩講は出口殿(出口御坊)へ行った」と記録されています。
同様のことは本福寺蔵「御文」『遺文』八十五にもあり、蓮如上人の側近である空念というお弟子が、なぜ本山の親鸞御影のある大津ではなく河内出口まで報恩講のために参詣するのか、と訪ねたところ、「どこの親鸞御影に参詣しようと同じことだ」と法住が答えたので、空念からそれなら堅田にも御影はあるだろうと言われたところ、法住は絶句したといいます。
ここからわかるのは法住は余程蓮如上人をお慕いし、蓮如上人からお話が聞きたかったのでしょう。
蓮如上人はこの出口御坊で、3年間布教されました。
出口御坊から山科本願寺へ拠点を移されることは、以下の記事で書いています。

編集後記
蓮如上人は、吉崎御坊を止む無く退去されたあとも、布教の勢いは止まりませんでした。
どんな困難があっても力強く突き進まれる蓮如上人は、親鸞学徒の鑑です。
私たちもいろいろな困難はありますが、これからも大阪会館で真剣に聞法させていただきましょう。
