今回は、大阪府茨木市にある寺院・称名寺の開基となった本多祐西について紹介します。
祐西は、蓮如上人との出会いを通じて浄土真宗に帰依し、茨木地域における中心人物の一人となりました。
吉崎退去から淀川流域へ
文明7年(1475年)8月のこと。
蓮如上人は、加賀の守護・富樫政親との対立や教団内部の過激化を避けるため、吉崎御坊を退去せざるをえませんでした。
北陸での直接のご布教を断腸の思いで断念されますが、蓮如上人はすぐに新たな拠点を求めて大坂へと向かわれたのです。
新天地として選ばれたのが、河内国茨田郡中振の郷、すなわち「出口」でした。
出口御坊については、以下をお読みください。

出口は、京都と大坂(当時の渡辺津など)を結ぶ淀川水運の中継点という、交通の要衝でした。
対岸には摂津国の富田・高槻・茨木が広がっており、蓮如上人はここを拠点として、船を用いて頻繁に対岸へ渡られました。
そして摂津三島郡の村々を、一つ一つ丁寧に巡回されたのです。
蓮如上人は60歳を超えておられましたが、その布教への情熱は少しも衰えることがありませんでした。
「道場」としての有力者の邸宅
蓮如上人のご布教には、大きな特徴がありました。
もともとあった既存の寺だけではなく、村々の有力者(名主、土豪、地侍など)に仏法を伝えていかれ、その私邸が「聞法道場」となっていったのです。
その場所の責任者に、自筆の六字の御名号や『御文章』を下付され、その家を地域の重要拠点とされたのです。
一軒一軒、一人一人との出会いを大切にしながら、蓮如上人は摂津の地に阿弥陀仏の本願を広めていかれました。
茨木主原の本多祐西との出会い
文明年間のことです。
蓮如上人は摂津巡錫の途中、茨木の主原という地を訪れられました。
ここに住んでいたのが、本多長門守助信、後の本多祐西でした。
室町時代の摂津・茨木周辺は、日本の歴史の中でも特に激しい権力闘争が行われたところです。この地域の有力な在地領主だった祐西は、人生の無常さをひしひしと感じていたのでしょう。
蓮如上人から阿弥陀仏の本願をお聞きし、後生の一大事に驚き、すぐに蓮如上人に帰依し、祐西という法名をいただきました。
そして祐西はすぐに自宅を聞法道場として、周囲の人々に阿弥陀仏の本願を伝えるようになります。
ここが後の、主原の称名寺となりました。
そして後に蓮如上人は、京都と大坂を行き来する際に、祐西の開いた聞法道場に宿泊したと伝わっています。
蓮如上人は、お弟子方のもとへしばしば訪れては直接ご教導を賜り、交流を重ねられていました。
このようにして強固な信頼関係が築かれていったのです。
称名寺には、今でも蓮如上人直筆の六字の御名号が伝わっています。
編集後記
蓮如上人との出会いが、一人の在地領主の人生を変え、やがて一つの聞法道場となりました。
船で淀川を渡り、村から村へと歩かれた蓮如上人。夜を徹して法義を語り合われた姿。そして、それを真剣に聞き、人生を変えた祐西。
それは、阿弥陀仏の本願を一人でも多くの人に伝えたいという蓮如上人の熱烈な願いと、人生の目的を真剣に求めた本多祐西の姿勢が結実したものでした。
そしてその後も蓮如上人は、多くのお弟子方に心をかけ、お弟子の一人である祐西も蓮如上人を生涯お慕いいたしたのでした。
私たちも共に聞き求める親鸞学徒の法友を大切にし、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。