有馬湯治の御文について

今回は、蓮如上人が兵庫の有馬温泉で療養されたときのことを紹介します。

目次

有馬紀行

山科本願寺を建て終えられた1483年(文明15年)69歳の時、蓮如上人は有馬温泉へ行かれたことを、御文章に書き残されています。

原文はこちらをご覧ください。

蓮如上人の有馬湯治や有馬紀行といわれ、山科本願寺建立までの積もり積もったお疲れを癒やすためだと言われています。

この時、蓮如上人が移動されたルートを見てみると以下のとおりです。Googleマップを使って、現在のルートを表示してみました。

※あくまでイメージであり、蓮如上人が実際に歩まれた道と同じではありません。

往路

まず早朝に山科を出た蓮如上人は、南に下り、勧修寺(小栗栖)、石田を通り、六地蔵に寄って、宇治川にでて船に乗りました。

Google Mapによるイメージです。

淀川を船で下ったあと、広瀬(大阪府島本町)で船を降り、富田(高槻)の出口御坊で一泊します。

Google Mapによるイメージ図です。

出口御坊についてはこちらも合わせてお読み下さい。

翌日、急いで有馬に向かわれる蓮如上人一行は、富田より西に行き、総持寺(茨木市総持寺町)を右手に、太田川の末を渡り、糠塚(茨木市)を通り、福井城(茨木市)を右に見て、宿井城(岩井城?)も右に見て、宿川原を通り過ぎます。

Google Mapによるイメージ図です。

西国街道をたどられ、池田から石田の茶屋や田の池を通り過ぎて猪名川(摂津武庫郡・西宮市付近にあった)で少し休息を取られます。

ここで一句詩を詠まれています。

音に聞ます田の池を いま見れば
つゝみのかたち それとのみしる

そのあと、米谷(舞谷、宝塚市米谷)を通過し、大多々川(武庫川上流・現太多田川)に突き当たります。

Google Mapによるイメージ図です。

大多々川(太多田川)から生瀬の渡しを渡り、舩坂(西宮市)に到着しました。蓮如上人はここで有馬まであと一里と聞いて嬉しくなり有馬へ急ぎ、岩坂、七坂八峠を超えて、ようやく有馬温泉の宿「湯山之御所坊」へ到着されました。

このとき、以下の詩を詠んでおられます。


岩坂や 七坂八たうげ こえすぎて
ありまの山の 湯にぞつきけり


又云、


さかこえて ゑにし有馬の 湯舟には
けふぞはじめて 入ぞうれしき

Google Mapによるイメージ図です。

強行スケジュールだったのでかなりお疲れであったのか、湯に入ったあと「くたびれて前後不覚」におちいり眠ったと書かれています。

蓮如上人が「湯山之御所坊」と言われている温泉は、現在「陶原御所坊」と言われ、昔から多くの有名な人々が訪れています。

復路

蓮如上人は、湯山之御所坊で最初の一週間はゆっくり療養され、あとの一週間は近くのお寺に行き、僧侶と会話などしていたようです。二週間ほど滞在し、帰り際に以下の詩を詠んでおられます。


日数へて 湯にやしるしの 有馬山
やまひもなをり かへる旅人

帰りは往路と同じく七坂八峠を越え、岩坂、舩坂を過ぎたところで、紅葉の始まりに感動されています。

やがて生瀬を過ぎ、米谷まで到着したところでにわか雨にあい、ここで一泊されました。

翌日早朝には出発され、米谷(舞谷)から往路とは別のルートで、南に下りながら帰られました。

松原が続く道を行き、当時有名だった井トリ野(応仁記 井鳥野合戦之事?)を過ぎ、昆陽寺の近くを通り、昆陽池の貯水池に来ました。

風景を眺めつつ進みながら、塚口で一休みしておられます。

ちなみに当時、塚口には「塚口御坊」や文明(1469年〜1486年)期に蓮如上人のお弟子となった常西の「西性寺」などがあります。

Google Mapによるイメージ図です。

さらに南へ下り、坂部(尼崎市)、若王子(尼崎市)を過ぎて、神埼まで行き、そこで屋形船を仕立てて、宴会の席を設けられています。

そのまま猪名川を登って椋橋付近(倉橋?尼崎市)に着いてしまい、そのことに気づいた蓮如上人はまた神崎川へ戻って、加島に上陸し、一泊されています。

Google Mapによるイメージ図です。

翌日は、三番(神崎川と中津川のあいだの三角州、柴島付近)へ行き、江口を通り、唐崎(高槻市)から船に乗って、出口御坊に到着し、ここで二泊されました。

翌日は大塚(高槻市)から船で淀川を登り、伏見(京都市)に着くと、山科からたくさんのご門徒の出迎えがあることに気づき、急ぎ船を岸へよせたとあり、大変喜ばれたようです。

そしてそのまま山科本願寺へお帰りになられました。

Google Mapによるイメージ図です。

布教の旅

蓮如上人は、行きは2日かけ、帰りは4日かけて、山科へ帰られました。

この蓮如上人の旅は有馬紀行といわれ、蓮如上人がゆっくり旅をされたと一般的には考えられていますが、たどった道を見てみると、立ち寄った土地で親鸞聖人の教えを伝えて行かれたのではないかと考えられます。

蓮如上人が歩まれたところは、今の高槻市、摂津市、吹田市、茨木市、豊中市、箕面市、池田市、川西市、宝塚市、伊丹市、尼崎市、大阪の淀川区、福島区、北区、東淀川区など大変広範囲に渡っています。

そこには出口御坊を始め、塚口御坊、名塩御坊(西宮市)、定専坊(三番・東淀川区)、最徳寺(兵庫県川辺郡猪名川町)など、当時蓮如上人が教化され、本願寺に入った寺院が点在し、また、吉崎御坊から大阪に戻ったあとに開かれた寺院が50近く見られることも考慮すると、今回の有馬湯治は、ただの療養の旅ではなく、布教の旅だったと思われます。

編集後記

蓮如上人は、療養される際も、有縁の人々に親鸞聖人の教えを伝えようとされていたことが、御文章から伝わってきます。

今回の御文章には「誰に伝えた」とは書かれていませんが、歩まれた道に蓮如上人とゆかりのある寺院が多くあり、また蓮如上人のお弟子になった人が多数いることから、教えを説かずにおれなかったことが伝わってきました。

このようにして伝えてくださった親鸞聖人の教えを、これからも真剣に大阪会館で聞かせていただきましょう。

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