浄土真宗・親鸞聖人と聖徳太子

聖徳太子

今回は、大阪とも関係の深い聖徳太子について紹介します。

目次

親鸞聖人と聖徳太子

浄土真宗と聖徳太子が非常に深い関係にあることは、よく知られています。

和国の教主

なぜなら浄土真宗の開祖である親鸞聖人が、聖徳太子を讃える『皇太子聖徳奉讃』75首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首など、たくさん和讃を書き残し、聖徳太子を大変称賛されているからです。

たとえば以下の和讃では、聖徳太子を日本のお釈迦様とまで仰がれています。

和国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし

引用:『正像末和讃』(皇太子聖徳奉讃)

和国とは、日本のこと。

教主は、教えの主ということで、仏教はお釈迦様が説かれた教えですから、お釈迦様のことです。

聖徳皇は聖徳太子のことなので、「和国の教主聖徳皇 」は聖徳太子を「日本のお釈迦様」と言われています。

ではなぜ聖徳太子を日本のお釈迦様と言われているのでしょうか。

それは聖徳太子がいなければ、日本に仏教は広まらなかったからです

そのため聖徳太子の広くて大きなご恩には、感謝してもし尽くすことができないと和讃でほめたたえられています。

他にも親鸞聖人がまだお若いとき、以下のような体験をされて真実へ導かれておられます。

磯長(しなが)の夢告

親鸞聖人19歳の時、比叡での求道に行きづまられた聖人が、かねて崇敬されていた聖徳太子の御廟へ参籠されて、生死の一大事の助かる道を尋ねられたことがありました。

そこで聖徳太子が夢に出てきてお告げをされたと言われます。

聖徳太子の御廟は磯長(現・大阪府南河内郡太子町)にありますので、これを磯長(しなが)の夢告といいます。

磯長の夢告は大事な教えですので、以下の記事や、「世界の光 親鸞聖人」(第1巻)をご覧ください。

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六角堂の夢告

また、さしせまる後生の一大事に苦悩せられた親鸞聖人が、比叡の山を下りて京都のど真ん中の、聖徳太子が建立された六角堂で、100日もの間、篭られたことがあります。

その本尊の救世観音に、我が身の救われる道があるかと、必死に尋ねられたことがありました。

詳しい内容は、以下の記事をお読みください。

このようなお導きもあり、親鸞聖人は聖徳太子を大変敬っておられたのですが、聖徳太子とは一体どのような方だったのでしょうか。

聖徳太子と仏教

聖徳太子は、昭和33(1958)年12月1日から昭和61(1986)年1月4日まで、1万円札に印刷されていたことを覚えている方もまだ多いと思います。

聖徳太子(574年〜622年)は用明天皇の第二子で、母親は穴穂部間人皇后です。

聖徳太子がお生まれになる少し前に、仏教が日本に伝わってきました。

仏教伝来

538年、仏教は用明天皇の父、欽明天皇のときに朝鮮半島の百済の国から日本に伝わりました。

百済の使者は、経典や仏像を欽明天皇に献上し、百済の聖明王から託されていた手紙も一緒に天皇に渡しました。

そこにはこのように書かれています。

この法は諸の法の中に最も殊勝たり。 解さとり難く入り難し。 周公・孔子も尚知りたまふこと能わず。 この法はよく量もなく、辺もなき福徳果報を生じ、 乃至すなわち無上すぐれたる菩提を成弁す。

引用:『日本書紀』

意訳:仏法は、数ある教えとされるものの中で最もすぐれており、解しがたく、入りがたく、 周公・孔子のような儒教の聖人でも知ることのない境地である。
この仏法は、限りなき幸せをもたらし、真のさとりへと人々を導くものである。

手紙を読んだ欽明天皇は、大変喜び次のように言いました。

朕昔よりこのかた未だかつてかくの如き微妙くわしき法を聞くことをえず。

引用:『日本書紀』

意訳:朕(私)は今だかつて、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった、

欽明天皇は、まだ仏法を認めるか判断ができなかったようですが、30代目の用明天皇は即位後、天皇として始めて王朝として仏教を公認し、用明天皇自身も仏教へ帰依しました。

このような状況でお生まれになった聖徳太子は、幼い頃より聡明で、学問を好み、仏法を篤く信仰していたといいます。

しかし用明天皇が仏教へ帰依したことで、仏教推進派と反対派の対立が大きくなりました。

14歳のときに父の用明天皇が崩御し、仏教反対派の物部守屋が推進派の蘇我馬子を攻めてきたので、聖徳太子は蘇我馬子軍に加わり出兵し、そのときに勝利を四天王に祈願したことが、後の摂津玉造の四天王寺の建立に繋がりました(現在四天王寺は天王寺にあります)。

仏教の研鑽と著書

593年、20歳のときに皇太子であった聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、四天王寺を難波に移し、法隆寺(法隆学問寺)を建立し、仏法を学ぶ場としました。

595年には、高句麗より慧慈を招き師と仰ぎ、仏典やその他外典の研学に励みます。

598年には天皇の勅を拝して聖徳太子が「法華経」や「維摩経」の内容を講説し、諸王諸臣だけでなく、一般人の聴聞も許されました。

その後も十七条の憲法では「篤く仏法を敬え」と規定し、小野妹子を遣隋使として中国隋に派遣し、経文等を持ち帰るよう指示したり、学問僧を送って、仏教興隆の礎を築いていきます。

十七条の憲法についてはこちらの記事もお読みください。

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そして聖徳太子は日本で初の仏教注釈書である『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)を執筆しました。執筆したのは『法華義疏』(615年)『勝鬘経義疏』(611年)『維摩経義疏』(613年)の三冊で、それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書です。

三経義疏は、師匠の慧慈が帰国する際に、写本し持ち帰ったといわれます。

この中でとくに『維摩経義疏』に重要なお言葉が紹介されています。

聖徳太子と浄土教

聖徳太子の時代には、すでに浄土真宗の根本経典の一つである『大無量寿経』が伝来し、浄土教が伝わっていたと言われています。

そして大無量寿経を読まれた聖徳太子が、日本で初めて『大無量寿経』の中の阿弥陀仏の十八願の御文の一部を、注釈書の中で引用されました。

無量壽經云唯除五逆誹謗正法者但爲一念非謂一生終身修行也

引用:『維摩経義疏』(上巻)

書き下し文:無量寿経に云わく、唯だ五逆と誹謗正法を除くは、但だ一念たるのみ、一生身を終わるまで修行するを謂うには非ず

この意味については様々な解釈がされていますが、「唯除五逆誹謗正法」は十八願、「一念」は本願成就文の御文とし、聖徳太子が浄土教について書かれていると解釈する人もいます。(出典:聖徳義疏維摩経大講座 第2巻 (仏国品 第1 続))

また欽明天皇が阿弥陀如来を彫像し、四天王寺が難波に移されるときには、阿弥陀仏の尊像があったといいます(出典:扶桑略記)

上記のようなことから聖徳太子が活躍された時代には、すでに浄土教や大無量寿経の経典が伝わっていたと考えられています。

このような聖徳太子を親鸞聖人は「和国の教主」と称賛されているのであります。

編集後記

今回は、聖徳太子と仏教、とくに浄土真宗との関わりについて解説しました。

聖徳太子がいなければ日本に仏教は広まらず、浄土真宗の教えが明らかにされることはありませんでした。

聖徳太子は

世間虚仮 唯仏是真

引用:天寿国繍帳

と言われ、親鸞聖人は

火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまこと

引用:歎異抄

と仰っています。

「諸行無常」の世にあって変わらぬ幸せがあると説く仏教を教えていかれたのが聖徳太子であり、親鸞聖人であります。

親鸞聖人は、聖徳太子は阿弥陀仏の本願を勧めておられると各和讃で称賛されています。

聖徳太子も伝えてくだされた阿弥陀仏の本願について、大阪会館でこれからも真剣に聞かせていただきましょう。

聖徳太子

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