今回は、田上の了宗が登場する、御一代記聞書を紹介します。
田上の了宗
大坂殿にて、ある人、前々住上人に申され候ふ。今朝暁より老いたるものにて候ふがまゐられ候ふ。神変なることなるよし申され候へば、やがて仰せられ候ふ。信だにあれば辛労とはおもはぬなり。信のうへは仏恩報謝と存じ候へば、苦労とは思はぬなりと仰せられしと(云々)。老者と申すは田上の了宗なりと(云々)。
出典:『御一代記聞書』
意訳:大坂御坊で、ある人が蓮如上人に「今朝、あけがたから、お年寄の方が参詣されました。まことに珍しいことであります」と申し上 げたところ、すぐに蓮如上人は「信心さえあればどのようなつらいことも、辛労とは思わないものである。信心をいただいた上は、何事も仏恩報謝と心得て、苦労とは思わないものである」と仰っしゃいました。そのお年寄というのは、摂州田上に住んでいる「田上の了宗」という禅宗の僧侶であったとのことである。
田上の了宗は、摂津国(現在の大阪府北西部)の田上という場所に住んでいた人で、禅宗の人でありながら、蓮如上人から親鸞聖人の教えを聞いていたといいます。
「暁」は、ニワトリの鳴き始めるときとか、午前3時頃(丑の刻八つ時)をいいます。
つまり朝とても早い時間から、大坂の北西部からはるばる大坂御坊まで老人が参拝したとのことです。
「神変」の神は不測という意味で「測れないこと」、変は変異の意味で「いつもと変わったこと」を意味し、類のない奇特なことがおきたことを神変と言っています。
つまり、ある人が、午前3時から参拝する人はこれまでなく、さらに年配の方だったので、奇特なことがございましたと蓮如上人に申し上げました。
「やがて」は頓の字で、直ぐにという意味です。蓮如上人は話を聞いて、すぐに仰ったということです。
「信だにあれば辛労とはおもはぬなり」等のお言葉で次のことを教えて下さっています。
真実の信心を獲た人であれば、恩徳讃の心が起こり、身を粉にしても骨を砕いても仏恩に報いずにおれなくなるのだから、どんなに朝早く参拝しても、さらに年老いたからといっても、苦労とは思わないのである。
恩徳讃とはどのような心なのでしょうか。
恩徳讃について
恩徳讃とは次のお言葉です。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし引用:『正像末和讃』
身を粉に、骨砕きても報い切れぬは、如来大悲の大恩と師主知識の洪恩だと、親鸞聖人は仰っています。
「如来大悲」とは、阿弥陀如来の大慈悲心のことです。慈悲とは、苦しみを抜き取り、幸せを与えてやりたいという抜苦与楽の心をいいます。
私たちにも、可哀そうな人を見ると助けてやりたい慈悲の心はありますが、情けないかな続きません。わが子への慈悲でさえも、親の思い通りにならないと腹が立ちます。ましてや他人の子は、わが子ほどにも思えません。小慈悲と言われるゆえんです。
阿弥陀如来の大慈悲は、万人平等の不変の慈悲であり、十方諸仏とは比較にならないズバ抜けた智慧を具えています。
かつて大宇宙の諸仏方も、苦悩の人々を何とか救おうとされましたが、あまりに罪悪深重、煩悩熾盛の極悪人ゆえに、可哀そうだが「助ける縁なき者」と見放すしかありませんでした。そんな我々を諸仏の師・阿弥陀如来だけが、「私が必ず助けよう」と奮い立たれて崇高な大願を建てられたのだと、蓮如上人はこう明記されています。
弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、(乃至)弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して我ら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて
出典:『御文章2帖目8通』
この弥陀の誓いを、阿弥陀仏の本願といいます。まさに大宇宙にない無上の誓願であり、親鸞聖人は『教行信証』の冒頭に
難思の弘誓は難度の海を度する大船
と喝破されています。
苦しみの絶えない人生を「難度の海」に例え、想像もできない救助の「大船」のあることを明言されているのです。
欲や怒り、ねたみそねみや執着で、人は死ぬまで苦悩します。そんな煩悩具足の我々が、平生の一念に、弥陀の大船に乗せられると、煩悩の波は増えも減りもせぬままで、輝く光明の広海と転じ、来世は無量光明土とハッキリいたします。
その驚きと感激、慶びは、人生の目的どころではありません、多生にも億劫にもない無上の幸福と知らされますから、「弥陀の大恩は、身を粉にしても足りませぬ。導きたもうた善知識の洪恩も、骨砕きても済みませぬ」と感嘆せずにおれないのです。
「死んだらお助け」や曖昧模糊とした救いで、熱火の法悦はありえません。ただ今、平生業成の救いに値えばこそ、恩徳讃と燃えるのです。
恩徳讃について詳しくは、次の記事もお読みください。
編集後記
蓮如上人は、私たちが理解しやすいようにと身近な出来事を通して、親鸞聖人の教えを教えてくださっています。
田上の了宗のように仏法を聞くための苦労は、信前は尊い宿善となり、信後は御恩報謝となります。無駄になる苦労は一つもありません。
私たちは、お金や財があるときは華やかな暮らしに執着し仏法を求めず、貧しいときは衣服を求めて汲々となり仏法を聞かず、外が少しでも暑かったり寒かったりすれば聞く気がなくなり聞法会場に足を運ばず、若い時はまだまだ大丈夫と油断し仏法を聞かず、年老いれば身体が不自由だからとやはり仏法を遠ざけてしまいます。
これらの懈怠の心に負けず後生の一大事の解決一つ心にかけ、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。