今回は大阪(摂津平野)にて、佛光寺派僧侶であった経豪(蓮教)が、蓮如上人へ帰依したときのエピソードを紹介します。
佛光寺派とは
まずは佛光寺派について、簡潔に解説します。
佛光寺派の正式名称は真宗佛光寺派で、真宗十派の1つです。
真宗十派とは、覚如上人、蓮如上人の流れを組む東西本願寺2派と、親鸞聖人のお弟子系統の8派で、合わせて10の宗派のことです。
現在、浄土真宗の宗派は16派ありますが、一般的に、真宗教団連合に加盟する10派が真宗十派と呼ばれています。
本山は京都市下京区の佛光寺で、すぐ近くに浄土真宗親鸞会京都会館があります。
佛光寺は、どのようにしてできたのでしょうか。
佛光寺の由来
親鸞聖人は承元の法難により越後へ流刑となりましたが、建暦元年(1211年)に赦免となられました。
佛光寺の寺伝によれば、建暦2年(1212年)に親鸞聖人が一時京都に戻られた際に、京都で草庵を開かれ、京都から離れる際に弟子の真仏に任せたとされますが、一般的に史実とはみなされていません。(参考:『真宗の教義及其歴史』など)
元禄年間(1688年〜1704年)に書かれたと言われる『院家系図記』には、真宗高田派の真仏の流れをくむ了源が、1320年に関東から京都へ上京後、存覚上人の指導を受け、1324年に山科に一宇を建立しました。
その際に、興正寺と名付けたのは覚如上人だといわれています。
興正寺者
引用:『真宗史料集成 第7巻』(興正寺由来・院家系図略記)
覚如上人之弟子空性房了源之開基也
祖師聖人直弟真仏ヨリ源海了海誓海明光ト付法シテ明光ノ門徒ニ弥三郎ト号スルモノアリ是ハ平維貞ノ家人比留左衛門太郎維広カ家来ナリ維貞京六波羅へ上洛ノ時弥三郎モ上洛シケルカ本願寺第三世覚如上人へ参詣シ則大谷ニテ剃髪付法シテ空性房了源ト号ス元応二年比ト云々其後正中元年八月山科ニ一寺ヲ建立ス覚如上人ヨリ興正寺ト号ヲ賜フ後ニ法義ニツキ自義曲解の誤リアルユヘニ覚如上人ヨリ門徒ヲ擯撥シタマフ嘉暦三年(元徳二年)之比渋谷ニ移テ寺号ヲ改仏光寺ト号ス
意訳:覚如上人の弟子である空性房了源が開基の寺である。祖師親鸞聖人の直弟子である真仏から、源海、了海、誓海、明光を経て、明光の門徒の弥三郎といわれるものがいた。弥三郎は平維貞の家人である比留左衛門太郎維広の家来であった。平維貞とともに上京し、大谷本願寺の覚如上人を訪問。そこで出家し、了源と名乗った。
正中元年(1324年)8月に山科に一寺を建立し、覚如上人より興正寺と名付けられた。後に了源は、親鸞聖人の教えを捻じ曲げたとして、覚如上人より破門され、嘉暦三(元徳二年:1330年)に寺を京都の渋谷に移して寺の名前を仏光寺と改名した。
了源は、親鸞聖人の教えを捻じ曲げたとして覚如上人より破門され、その後、本願寺とは別の道を歩むことになりました。
破門後も、真宗教義について存覚上人と引き続き交流が行われていました。
そして興正寺は、後に佛光寺(仏光寺)と改名しました。これは存覚上人の命名だとされています(出典:存覚一期記)。
佛光寺派は、その後も勢いが止まることなく勢力が拡大していきます。
佛光寺派の隆盛
了源は、名帳、絵系図や光明本尊等といった布教方法を用いて、近畿を中心に広く佛光寺派の勢力を拡大していきました。
蓮如上人がお生まれになった頃、当時の浄土真宗の最大宗派は佛光寺派となっていたのです。
佛光寺は天台宗の妙法院を本山としていました。そのため叡山の衆徒が大谷本願寺を破却した際には、妙法院の仲介のおかげで大きな被害もなく、事なきを得ました。
大谷本願寺の破却については、こちらの記事をお読みください。
![](https://osakakaikan.site/wp-content/uploads/2023/06/IMG_1347-300x225.jpg)
しかし応仁の乱のときには、佛光寺派は大阪の摂津平野に寺を移しましたが、京都渋谷の本寺は戦災しました。
そして、佛光寺派の経豪が蓮如上人のお弟子になったとき、佛光寺派の勢いが大きく衰える事件が起きます。
経豪について
佛光寺13代目法主であった父性善と、中将實綱の娘であった母の、長男として生まれました。
幼い頃より偉人の才があり、寛人大度(心が広く思いやりがあり)、人と接する時は謙遜し、他人が善い行いをしていれば、できる限り褒め讃え、常に徳を譲り、自らを低く見せようとする人であったと言われています。
室町時代の公卿である甘露寺親長の猶子となり、妙法院門跡天台座主教覺を師として得度しています。
それから文明元年(1469年)3月に佛光寺第14代住職となり、文明5年には権大僧正(上から二番目に高い僧位)となっています。
一大勢力である佛光寺派の法主とまでなった経豪は、なぜ蓮如上人のお弟子となったのでしょうか。
佛光寺派 経豪の転向
蓮如上人が本願寺を継承された1457年から、大谷本願寺を破却された1465年ころまでに、本願寺の門徒が急増し、佛光寺派は大きな打撃を与えられました。
佛光寺派からすれば門徒を奪われたようなものですから、蓮如上人へ恨みをもっていてもおかしくありません。
しかし他の僧侶とは違い、経豪は蓮如上人の教えに大変興味を持ちました。
蓮如上人のもとへ帰参
経豪は文明元年(1469年)、蓮如上人が滋賀の近松山顕証寺を建立された頃、順如上人を仲介して、蓮如上人のもとで聴聞をしています。
仏光寺蓮教は父往生の砌よりしきりに帰参の望あり。 彼門弟当流へ帰参の仁に立より順如上人ヘ申されしかば、 即申入られ蓮如上人めしいだし玉ふ。 百ヶ日の内なり。 親父は摂津平野にて卒逝ありき。
引用:『反故裏書』
意訳:佛光寺派の蓮教(経豪)は、父性善が摂津平野で亡くなったあと、蓮如上人のもとにしきりに帰参したくなりました。順如上人へ相談したところ、すぐに話しがとおり、蓮如上人が経豪をお呼び寄せになりました。
順如上人についてはこちらの記事で解説しています。
![](https://osakakaikan.site/wp-content/uploads/2023/10/スクリーンショット-2023-10-20-1.31.24-276x300.png)
経豪が蓮如上人のもとへ訪れた理由は、複雑な事情があったから、継母とうまくいかなかったから、教義上の異見によるなど言われますが(出典:『本願寺物語』)、蓮如上人に心酔し、蓮如上人のお徳にひかれ本願寺を訪れたのでした。
経豪は、しばらくは佛光寺派でありながら、蓮如上人の教えを聞き求めていました。
然間経豪乍有当山法流私信天蓮如教旨
出典:『仏光寺法脈相承略系譜』
意訳:しかる間、経豪は佛光寺にいたけれども、蓮如上人の教えを信じていた。
于時蓮如、以無碍光如来為本尊、於是呼称無碍光派、経豪與之勠力謀張行、師父近親屡諫之不聴
出典:『渋谷歴世略傅』
意訳:ときに蓮如上人は、無碍光如来の名号を本尊とし、無碍光派と呼称していた。経豪は蓮如上人とともに行動し、協力し、無碍光派を布教するようになり、師父や近親から何度も諌められても、聞く耳をもたなかった。
当然、このような経豪の言動は、佛光寺内部からよく思われないだけでなく、本願寺へ強い警戒心をもっている比叡山からも目をつけられることとなります。
経豪が蓮如上人のお弟子になるまで
このあと蓮如上人は1471年に北陸布教へ赴かれたことから、経豪が蓮如上人のお弟子になるまで更に10年ほど時間がかかったようです。
蓮如上人のもとへ再び訪れるようになったのは、文明10年(1479年)山科本願寺が建立されはじめてからでした。
経豪は常に考えていました。
「私だけでなく、門徒一人一人に後生の一大事がある。自分は今、法主として何をなすべきか」
この時、比叡山の衆徒が経豪の動きを非常に警戒し、文明13年から文明14年にかけて、妙法院を介して、経豪に本願寺と縁を切るよう再三説得したものの、経豪は聞き入れませんでした。
経豪は、ついに佛光寺を追放され、弟の経誉が14代目法主となっています。(出典:山門大講堂集会議)
しかし佛光寺派にとっては、この追放が裏目にでてしまうことになりました。
佛光寺派の寺院や門徒が本願寺派へ
経豪は、門徒らを集めて諄々と説きました。
「私は、法主の座を捨て、一聞法者として蓮如上人に教えを請う。 後生の一大事の前に、見栄や外聞など問題ではない」
経豪を信頼していた佛光寺派の多くの門徒が、経豪とともに本願寺へ宗旨変えしました。
経豪被追退之時、寺僧四十八坊内四十二坊、并牽諸国門徒数万入本願寺、境内所残唯々六坊有之
引用『佛光寺法脈相承略系譜』
意訳:経豪が追放された時、佛光寺派の寺が48坊のうち42坊、さらに数万人の門徒が本願寺派となり、6坊のみが残った。
興正寺の再建
経豪が蓮如上人のお弟子になったとき、蓮如上人は大変お喜びになったといいます。
蓮如上人はご自身のお名前の一部を経豪に与え、経豪は蓮教と名乗りました。「蓮」の文字を与えられたお弟子は限られていますので、経豪の帰属に特別な思いをもたれていたことがわかります。
それから山科本願寺の敷地内に、寺を建てさせ、「興正寺」と名付け、了源・覚如上人の時代の寺名を復活させたのでした。
やがて山科へ参扣、 昔のごとく立坊、 往昔の名にかへされ興正寺と号す。 是空性房了源、 覚如上人へ参入の時この所にたてられし一寺の称号也。。
引用:『反故裏書』
意訳:山科本願寺へ参詣し、昔のように寺を建て、興正寺と名付けました。これは了源が覚如上人のお弟子になった時に建てた寺の名称です。
特徴的なのは、興正寺は、本願寺派となったわけではなく、独立した宗派として存在したことでした。
さらに、存覚上人開基の寺である常楽寺の蓮覚の娘で、蓮如上人の孫娘にあたる恵光尼と経豪は結婚しました。これによって経豪は蓮如上人と親戚関係となったのです。
興正寺は、経豪までは佛光寺と同じく了源の流れを組む宗派として存在していましたが、経豪以後は親鸞聖人、蓮如上人との親戚関係がある点で、佛光寺と大きく異なる系統となりました。
再建後、本願寺と興正寺の団結は後世長く続き、石山合戦の際も本願寺とともに信長と戦い、度重なる本願寺の移転の際には、行動を共にしています。
これら興正寺の再建や、経豪と恵光尼の結婚を考えたのが、順如上人であったといわれます。
かくのごときの御計みな順如上人の御智慮となん
出典:『反故裏書』
意訳:このようなお計らいはみな順如上人のお考えであった。
山科本願寺建立の最中に、経豪が蓮如上人のお弟子になったことで、このあと真宗統一へのうねりが、ますます高まっていきます。
編集後記
経豪は、世間的にはとても身分が高く、才能もある方で、さらに大変徳がある方であったため多くの門徒の信頼を得ており、佛光寺派の法主を継ぐほどでした。
しかし後生の一大事を考えたとき、すべての地位や名誉、信じてきた宗派を捨てさり、蓮如上人のお弟子となっておられます。さらに経豪を慕う多くの門徒が、蓮如上人の教えを聞くようになりました。
経豪や多くの門徒が聞かずにおれなくなった、蓮如上人の伝えられた親鸞聖人の教え、阿弥陀仏の本願とはどのようなものだったのでしょうか。
浄土真宗親鸞会大阪会館で、真剣に聞かせていただきましょう。