今回は、石山本願寺を織田信長から守り抜いた戦国時代の親鸞学徒について紹介します。
石山合戦について、顕正新聞 平成28年3月15日号の内容です。

護法の砦跡に法城を 「遺弟の念力より成ず」
世にいう石山合戦とは、大阪(現在の大阪城の辺り)にあった石山本願寺と、織田信長とが10年以上戦った、日本史上最大級の合戦(元亀元年1570ー天正8年1580)である。
天下布武を目指した信長は、阿弥陀仏以外、一切の権威を認めぬ浄土真宗を恐れ、石山本願寺の立ち退きを要求した。
蓮如上人の建立なされた法城を護るため、本願寺はこれを拒否し、全国門徒は立ち上がった。決死報恩の奮闘は、さしもの信長軍をも畏怖せしめ、最後まで法城に兵馬の蹂躙を許さなかったのである。
石山本願寺の周りには、敵の侵攻を食い止める強固な防衛線が敷かれ、その要所要所に砦が築かれた。『陰徳太平記』にはその数51と記され、「野江」と示された砦の場所が、現在の大阪会館用地の辺りと推測される。
※浄土真宗大阪会館から徒歩2分くらいの場所に『榎並城跡』があります。
このあたりで砦を築かれたのではないかと言われます。

顕悟上人
この砦は、蓮如上人の十男、実悟上人の子息、顕悟という人物が護っていた。
信長の戦い方は「根切り」といわれ、敵対者は女子供でも容赦なく殺し根絶やしにする。天正2年(1574)には伊勢長島(三重県)、翌年には越前(福井県)門徒が滅ぼされ、亡くなった門徒の数は、合わせて4、5万に及んでいる。
野江の砦は堅塁を誇り、仏敵・信長の猛攻をよくしのいだが、天正4年(1576)ついに全滅。顕悟上人の首級はさらされた。
だが、門徒の梶山重左衛門、岩井利右衛門、長尾甚兵衛の3名が、果敢に敵陣に飛び込み、命懸けで顕悟上人の首級を奪い返し、石山まで持ち帰ったという。
石山本願寺を守り抜いた理由
史料は数行で終わっている。だが、そこには護法の鬼となった僧侶や名もなき門徒たちの、切なる思いがあふれている。農民・町民が、10年間、千軍万馬の信長軍に立ち向かったのはなぜか。
弥陀の本願真実を、末代の私たちに護り残さんがためであろう。
先達のかかる歴史の上に、大阪会館は築かれる。
専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず
御一代記聞書
大阪で浄土真宗の先達が守り抜いた親鸞聖人のみ教えを、これからも真剣に大阪会館で聞かせていただきましょう。
石山合戦についは以下の記事も参考にしてください。