かつて石山本願寺は、山科本願寺が破却され、拠点(本山)が大坂に移るまでは「大坂御坊」と呼ばれていました。
今回は、名号御坊とも呼ばれた大坂御坊(石山本願寺)に対する蓮如上人の想いや、建立の際のエピソードを紹介いたします。
蓮如聖人のご遺言
大坂御坊は、御文章の大坂建立章に「一宇の坊舎」として書かれています。
そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち、往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。
引用:御文章四帖目第十五通
御文章四帖目第十五通は、1498年(明応七年)11月報恩講のときに読まれた御文章です。
蓮如上人84歳のときに書かれたものであり、「五帖御文」の最後にあること、またその内容から蓮如上人のご遺言と言われます。
4月から病気がちであり、なかなか回復されないことから、11月の報恩講で「今生の御暇乞い」(お別れの挨拶)として書かれたものと考えられています。(出典:御文来意鈔)
ご病気になられてからの御文章
蓮如上人は4月からご病気になられ、なかなか回復されないことが御弟子の空善によって書き残されています。
四月初比より、去年のごとくまた御違例にて、慶道御藥師にまいり候、十七日にはなからゐ參候、十九日には板坂參候。きこしめし候物はおもゆばかり也。
引用:『空善聞書』
しかし体調がお悪い中であっても、私たち親鸞学徒の後生を案じて、御文章を執筆されています。
4月:2通
5月:2通(夏御文)
6月:1通(夏御文)
7月:1通(夏御文)
9月:2通(帖外御文)
10月:3通(帖外御文)
11月:1通(大坂建立章)
12月:2通(帖外御文)
以上は、ご制作日がわかっている範囲であって、実際には20通ほど書かれたのではないかと言われます。
12月の御文章の1通は、法敬と空善の2人へ当てられたものであり、もう1通は女人に対するものなので、一般的なご教導は、11月の4帖目15通が最後となっています。
信心決定あれかし
蓮如上人はご遺言の中で、大坂御坊の建立の趣意が述べられています。
この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすく過し、栄華栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり
引用:御文章四帖目第十五通
貴賎道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか
引用:御文章四帖目第十五通
あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。
またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。
引用:御文章四帖目第十五通
明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。
引用:御文章四帖目第十五通奥書
いずれのお言葉からも大坂御坊建立の本旨が、唯信心決定を勧めるためであったことがわかり、そして丁寧に入念に繰り返し書かれることで「信心決定あれかし」の御心が溢れていることが知らされます
世間の人であれば、80歳を過ぎて人生の晩年になれば、花鳥風月を楽しみながら風流な日々を過ごすかもしれません。
ところが蓮如上人が一日中思っておられることは、私たちに後生の一大事を解決してもらいたい、信心決定してもらいたい、これ一つでした。
また弟子の空善が書き残した御一代記聞書には、大坂御坊建立の理由をこのように書かれています。
この大坂の坊を建立するは、もし信心の人も出來候へかしと思ひて建つる所なり。(中略)其ごとくに寺中繁昌するとも、たゞ信心とる人なくはなにの篇目もなき事ぞと仰ありき。
引用;御一代記聞書(空善聞書)
意訳:「この大坂御坊を建立するのは、信心決定する人が現れてほしいと思い建てたのである。(中略)そのように寺が繁盛したとしても、ただ信心決定する人がいなければ何の役にも立たないのだ」と仰せになりました。
次に蓮如上人が大坂御坊を建立されるときのエピソードを紹介します。
大坂御坊(石山本願寺)建立時
蓮如上人は、明応5年(1496年)9月24日に初めて、後の大阪御坊の敷地となる場所をご覧になと言われています。
そして同年10月8日には、草庵が建てられました。
明應第五秋九月廿四日に御覽始られて、虎狼のすみか也。家の一もなく、畠ばかりなりし所也。(中略)、廿九日にくわ始也。同廿九日番匠も初て、十月八日草坊も立けり
引用:実悟『拾塵記』
意訳:明応五年の秋、9月24日に初めて蓮如上人がご覧になられた土地は、虎や狼の住処のようであった。家は一軒もなく、畑ばかりであった。(中略)9月29日には大工も来て建て始め、10月8日には草庵が建ちました。
『拾塵記』によれば、蓮如上人が初めて土地をご覧になられてから2週間という早さで、大阪御坊の草庵は建立されています。
また蓮如上人のお孫さんの顕誓という人が書いた『反故裏書』のなかに大坂御坊の建立について次のことが書かれています。
法安寺の僧、難ぜられていはく、明日は大悪日也、はじめて寺場造立の日には、しかるべからずと。この旨、森の祐光寺の先祖、内々申入られしかば、如来法中無有選択吉日良辰、仏説疑なし。明日早々取立らるべき也
引用:『反故裏書』
蓮如上人が大坂御坊の建立にかかろうとする前日、法安寺の僧侶が、「明日は大悪日だから止めたほうがいい、初めての建立なのでやめたほうがいい」と言ってきたが、蓮如上人は、「仏法には吉日とか凶日ということはありえない」と言って取り合わず、翌日にすぐに建立するよう指示されました。
当然ですが、蓮如上人は迷信などを排除し、急いで大坂御坊の建立に取り掛かられました。無常は迅速であり、一日も早く大坂御坊の建立を急がれる蓮如上人の御心が知らされます。
蓮如上人のご懇志
また『拾塵記』(蓮如上人のご子息・実悟著)には、次のようにあります。
蓮-如上人御往生の後、 大坂御坊ある女房姓の夢に、 御坊中に南無阿弥陀仏の名号をかけらるゝ事充満して、 幾千万ともなく侍るとみる。 夜明て、 是蓮能禅尼へかたり申さるゝ時、 禅尼の仰けるは、 此夢げにもと知れたり、 蓮-如上人の御物語ありしは、 自余の坊は惣門徒の志にて作らるゝ也、 此大坂の坊は蓮如名号を人の申さる人の御礼のつもりしを以て、 御建立の御坊也、 然ば今の夢尤ことはり也とぞ仰ける
引用:『拾塵記』
意訳:蓮如上人が御入寂の後、ある女性が、夢で大坂御坊の中に六字の名号がおびただしく掛けられていたのを見た。夢さめて後これを蓮能尼(上人の内室・第5夫人)に語ったところ、蓮能尼はこの夢は本当のことだと言われました。蓮如上人のなされたことで、大坂御坊以外の坊舎は門徒の懇志で建てられたが、大坂御坊は蓮如上人が名號を書かれた謝礼をもとに建立した、ということがあった。そのため今この夢はこのことと思い合わせられる。
ここから大坂御坊は『名号御坊』とも言われます。他の御坊と異なり、蓮如上人の懇志によって建てられたのが大坂御坊だったのです。
正しい御本尊は名号
蓮如上人は「おれほど名號かきたる人は、日本にあるまじきぞと仰候き」(私ほど数多くの名号を書いた者はいないだろう)(引用:『空善記』)とも仰っており、親鸞学徒へ名号を下付なさっておられます。
浄土真宗の正御本尊が名号であることは、このようなところからも明らかであり、浄土真宗親鸞会大阪会館の御本尊も当然名号が安置されています。
蓮如上人の終焉の地
蓮如上人は終焉の地として大坂を選ばれていました。
明應八年二月に、御往生一定にて御座あるべきやうに御談合にて、御葬所御用意あり。然に俄に御談合かはり、山科殿へ御上洛候て御往生あるべきよしとて、はや御日どり十八日に御さだめあり。
引用:『空善記』
明應八年月十五日にの玉ふは、我大阪にて往生せんと思へとも、思ふ旨ありて、山科にて往生すへ
引用:『蓮如尊師行伏記』
蓮如上人がお亡くなりになったのは、明応8年3月25日、山科本願寺の南殿ですが、同年2月には大阪を終焉の地と定め、大坂御坊で葬式の用意をされていたということでした。
のちに急遽山科に戻られることになられたのですが、このことからも大坂御坊への思い入れは深いものであったことがわかり、最期まで大阪でのご教化に力を入れられていたことを知っていただきたいと思います。
編集後記
大坂御坊(石山本願寺)は、蓮如上人の「信心決定あれかし」の想い一つで建立されたことがよくわかります。
また大坂御坊での報恩講で、親鸞学徒のためにご遺言を書き残され、終焉の地を大坂にしようとまでされていました。
蓮如上人が最期まで大阪の地に心をかけておられたことを知ると、感謝の念に堪えません。
これからも大阪会館で信心決定を目的として阿弥陀仏の本願を正しく聞かせていただきましょう。
