今回は、石山本願寺が城塞都市になった経緯について説明します。
石山本願寺とは
石山本願寺は、蓮如上人が室町時代に建立された寺であり、どこにあったのか正確な位置は今もわかっていませんが、今の大阪城あたりだったと言われています。
石山本願寺は大坂本願寺、大坂御坊、石山御坊、石山本願寺城、摂州第一の名城、南無六字の城など、呼ばれ方が多数ある特徴的な寺です。
今回は特に石山本願寺が「城」と評価されている理由について見ていきたいと思います。
石山本願寺の立地の特徴
蓮如上人が今の大阪城がある地域に、石山本願寺を建てられた理由として、以下の3つがよくあげられます。
1:要害の地
2:交通・交易の要地
3:商業集積地
今回は特に、「要害の地」の説明をします。
要害の地が重要である理由
要害の地は「防御・戦闘性に富んでいる所」を意味し、石山本願寺は、非常に防御に優れた場所に築かれました。
石山本願寺(大阪御坊)の建立の経緯について書かれている『大坂之御坊御建立縁起』には「天下無双の要害の地なりけり」(引用:眞宗懐古抄)と強調されて記されており、要害の地であることは聞法の拠点を建立する上で、とても重要な条件だったのです。
ではなぜ要害の地が重要だったのか。
今日の常識では考えにくいですが、「蓮如上人の人生の半分は迫害の歴史」と言われるほど、仏法を伝えることが難しい環境だったのです。
延暦寺衆徒による迫害
1465年1月に延暦寺西塔の衆徒により、大谷本願寺が破却(寛政の法難)されたあと、命を狙われた蓮如上人は身を隠す必要があり、難波にある久宝寺の法円のもとに身を寄せたり、滋賀の近江、金森、堅田の門徒たちのもとに身を潜めたりしました。

さらに同年3月にも叡山の衆徒は大谷本願寺を攻撃し、この時に大谷本願寺は壊滅的な打撃を受け修復不能となりました。
迫害の理由は、「蓮如上人が浄土真宗を拡めたこと」(無礙光建立一宗)であり、浄土真宗を邪教と決めつけ、護法の為に武力をもって阻止しなければならないと考えたからでした。この心の根底には、多くの人が蓮如上人のもとに集まることに対する、延暦寺衆徒の強い嫉妬心があります。(参考:『仏教研究4(2)』(寛正年間 大谷破却の眞相 ))
蓮如上人が近江へ行かれた後も、延暦寺衆徒の蓮如上人への追跡は緩みませんでした。
室町幕府が延暦寺衆徒に対して、2月・3月・5月と3回に渡り、延暦寺衆徒の押妨停止例を出しました。蓮如上人の妻の如了尼(にょりょうに)が室町幕府の政所執事をつとめる伊勢定親の一族であったこともあり、幕府は蓮如上人に同情的だったようです。
しかし幕府の押妨停止例も効果なく、以下の横暴の記録が残っています。
安置する無礙光金泥の本尊を奪取
引用:『金森日記抜』
意訳:ご安置されていた「帰命盡十方無碍光如来」の名号本尊を奪った
堅田・金森などの「道場を破却すること其数あまたに及ぶ」
引用:『金森日記抜』
意訳:数多くの聞法のための道場を破壊された。
このような近江・金森・堅田門徒への弾圧が続くなど、蓮如上人と親鸞学徒は、命を狙われる状況が続きます。
しかしこのような法難の中であっても、蓮如上人は滋賀の金森で1466年(文正元年)に報恩講を勤められ、延暦寺衆徒の迫害に怯むことなく、親鸞聖人のご恩に報いようと、教えを伝え続けられました。(参考:『守山市誌資料編歴史年表』)
また蓮如上人が吉崎から出口(大坂)に布教の拠点を移された(1475年頃)あとも、以下のように注意喚起されています。
たとひ牛盗人とはよばるとも、仏法者・後世者とみゆるやうに振舞ふべからず
引用「御文章」(1475年)
大道路次なんどにても、関屋船中をもはばからず、仏法方の讃嘆をすること、勿体なき次第なり
引用「御文章」(1483年)
上記のように蓮如上人をはじめ、当時の親鸞学徒は、いつ他宗に攻められるかわからない中での聞法求道だったのです。
そのため親鸞聖人の教えを伝えるための拠点は、護法のために城の如く防御を考慮した造りであることが重要課題となりました。
寺内町の城塞都市化
大坂御坊を建立された際に、蓮如上人はすぐに町の城塞化(じょうさいか)を進められました。
蓮如上人が重要視したのが、「番屋、櫓(やぐら)、橋、堀、釘貫(町の木戸)」といった環濠城塞都市施設の建設であり、六番匠と呼ばれる6人の番匠に命じて作らせています。
番匠とは、今で言う大工のことです。
番屋とは、寺内の警備と町の秩序を維持するための施設。交番みたいなものです。ここでは町の規則や罰則が掲示されていたり、他の町の門徒衆の状況が発信されていたりしました。ちなみに番屋に集って町を警護する人たちを番衆と言いました。
櫓(やぐら)とは城郭内に防御や物見のために建てられた建築物です。参考までに現在の大阪城の櫓を紹介します。

釘貫は、町の門にあたる防御施設です。最初、鍵は寺に預けられていましたが、後に番屋が管理しました。

石山本願寺は堀に囲まれ、以下のように要塞化していたと考えられています。山科本願寺が破却され、本山が石山本願寺に移った後の復元模型図を紹介します。

防御施設をつくる番匠(鍛治大工)は、寺内町の中でも重用され、役務を免除されるなど特別に扱われました。
また他の地域に寺院を造る際に派遣されていただろうとも言われています。
このようにして作られた石山本願寺は、どれほど堅固な寺院になったのか、次に見ていきたいと思います。
石山本願寺の防御力
石山本願寺が歴史的にも有名な理由は、織田信長と11年も戦った石山合戦があったからでしょう。
石山合戦のことを儒家の頼山陽は、以下のようにうたっています。
濃蹶・峡顛いずれか抗衝せん
梵王ひとり降旌を樹てず
豈図らんや右府千軍の力
抜き難し南無六字の城
引用:頼山陽
意味:美濃を制した斎藤道三(濃蹶:のうけつ)も、甲斐の武田勝頼(峡顛:きょうてん)も、あらがう術のなかった織田信長(右府)に、本願寺の顕如上人(梵王)だけが、屈しなかった。
だれが予想したか、あの信長千軍の力でも攻め落とせなかったとは。
驚くべき南無六字の法城、石山本願寺。
信長といえば、残虐非道な謀略家、自分の意に従わぬ者は徹底的にたたきのめすことで悪名高く、事実、彼に反抗した大名はことごとく滅ぼされています。
その信長が11年かけても落とせなかったのが、南無六字の城・大坂の石山本願寺でありました。
石山本願寺は、護法の法城として、「摂州第一の名城」とか石山本願寺城と言われるほど堅固な要塞を形成していたのです。
このように堅固な法城となったのは、親鸞学徒の護法の心からでした。
今迄當城抱へ候も、究竟の要害地の利全して、楯籠る諸卒一向に彌陀の本願を賴て一致する夏、其堅き事、恰も金石に同するに依て也。
引用:信長記巻13・大坂和睦の事
意訳:今まで石山本願寺を建立し、極めてすぐれた要害の地の優勢さを全うして、立て籠もる多くの兵士(親鸞学徒)が、一向に弥陀の本願を頼りて一致団結していた。其の堅固なことは、あたかも金剛石の如しであった。
石山本願寺を築き、護り抜いたのは、農民や町民で構成された諸国の真宗門徒・親鸞学徒であり、命がけの護法があったからこそ、今も教えを聞かせていただけるのです。
編集後記
蓮如上人が建立された大坂御坊・石山本願寺は、当時の親鸞学徒がどうすれば安心して仏法を聞かせていただけるのか、蓮如上人が非常に深く考えて建立されているのがわかります。
浄土真宗親鸞会大阪会館に石山本願寺のような防御力は必要ありませんが、私たちは仏法を聞かせていただく場所について、どうすればもっと聞法しやすい会場になるのか、工夫していくことが大切になります。
大阪会館は、工事をする前からどのような会館にするか、様々な意見を出し合い建立されました。もっと教えを学びやすくするためにはどうしたらいいか、これからも意見を出し合って改善していきたいと思います。