親鸞聖人のお師匠様である法然上人と大阪(なにわ)との深い関係について、紹介します。
法然上人が阿弥陀仏の本願をひろめられた地として、京都の吉水が有名ですが、大阪とも縁があります。
法然上人となにわ
法然上人のゆかりの寺として、天王寺にある一心寺と箕面にある勝尾寺があります。
一心寺
法然上人は、ここで以下の歌を詠まれたと伝わっています。
阿弥陀仏というより外は津の国の 難波のことも葦刈りぬべし
このお歌は法然上人が、天台宗の僧、慈鎮和尚に招かれ、摂津の国の難波(大阪)にある四天王寺に参られた時に詠まれました。
「難波のことも葦刈りぬ」は、「何ごとも悪しかりぬ」の意味の掛詞で、称名念仏(南無阿弥陀仏と称えること)以外はどんな修行も悪い行だとして、念仏為本を教えられた歌だと言われています。(参考:浄土宗教学体系)
法然上人はこの時、四天王寺の西門の近くに、四間四方の草庵を結ばれ、その庵の西の壁にこの歌を書かれ、その傍らに、御名号を書かれました。(出典:一心寺縁起絵巻)
御名号は「難波名号」と言われ、今も残っています。
勝尾寺
法然上人は、日本仏教史上最大の宗教弾圧である「承元の法難」によって、土佐(高知県)に流刑となりましたが、配流途中、九条兼実公の庇護により、讃岐国(香川県)への流罪に変更されました。
この時、法然上人は75歳でしたが、讃岐国での布教の足跡が多数残っています。
約10ヶ月間、讃岐国に滞在された後、法然上人は赦免されましたが、すぐに京都に戻ることは許されず、4年間難波(大阪)の地に留まりました。
その時の寺が、勝尾寺です。
以上が、法然上人が難波(大阪)に来られたときの有名なエピソードです。
浄土真宗の教えが広がる素地が、法然上人の時代から作られていたのでしょう。
法然上人が仏教界に与えた影響力についてはこちらの記事をお読みください。
また法然上人と親鸞聖人の出会いについては、こちらの記事をお読みください。
次に、法然上人と浄土真宗の関係について説明します。
浄土真宗とは
今日、浄土真宗とは、今から800年前に親鸞聖人が開かれた宗派だと言われています。
しかし親鸞聖人には、法然上人の弟子であるという強い自覚があり、自ら一宗一派を開く意志はありませんでした。
聖人は法然上人の教えを伝えることにのみ、生涯を貫かれた方なのです。
親鸞聖人は、ご著書の中で、このように言われています。
智慧光のちからより
引用:『高僧和讃』
本師源空あらわれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまう
「本師源空」とは法然上人のことです。
浄土真宗を開かれたのは法然上人であり、法然上人が阿弥陀仏の本願(選択本願)を伝えられたと仰っています。
また歎異抄には、
よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
引用:『歎異抄』(第二章)
((親鸞は)法然上人(よき人)の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。)
とあります。
以上からわかるように、親鸞聖人ご自身には、法然上人が明らかに説いてくだされた阿弥陀仏の本願を伝えること以外に、使命はありませんでした。
さらに親鸞聖人は浄土真宗について、このように仰っています。
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり
引用:教行信証
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
引用:正像末和讃
「浄土真宗」の意味は、どちらも阿弥陀仏の本願のことです。
親鸞聖人にとって浄土真宗とは、阿弥陀仏の本願のことであり、生涯明らかにされたことは、阿弥陀仏の本願ただ一つでした。
法然上人の教えと親鸞聖人の教えには寸分の違いもありません。
浄土真宗が親鸞聖人の教えといわれる経緯
今日、法然上人の教えと、親鸞聖人の教えは「異なる」と誤解されています。
その経緯を説明すると、法然上人が亡くなられたあと、浄土宗は、解釈の相違から5つの派に分かれます。
法然上人のお弟子には、聖道仏教から移ってきた人が多かったせいもあります。これらの人は、聖道仏教的な考え方がしみついているため、法然上人の教えをどうしても正確に受け取ることができなかったのです。
こうした教えの乱れを嘆かれた親鸞聖人は、『選択本願念仏集』を解釈した『教行信証』を著され、師・法然上人の本当の御心の開顕に努められました。
その親鸞聖人の教えを聞く人々が後代、大きな集まりとなり、浄土真宗と呼ばれるようになったのです。
唯信別開の絶対門
法然上人の当時、山へ入って修行をする聖道仏教に対し、念仏によってこの世で絶対の幸福に救われる浄土仏教を教えられました。
これを「念仏為本」(念仏によって救われる)といいます。
一方、親鸞聖人の教えは「信心為本」(信心一つで救われる)です。
そして「念仏為本」も「信心為本」も全く同じです。
これを財布とお金で喩えられます。
法然上人が「念仏為本」と言われたのは、財布が大事ということ。
親鸞聖人が「信心為本」と言われているのは、財布の中からお金を取り出し、お金が大事ということになります。
財布が大事と言えば、普通、財布の中のお金が大事ということなのです。
ところが、法然上人が財布が大事と言ったら、弟子たちは中のお金を忘れて、空の財布ばかりを大事にしてしまいました。
そこで親鸞聖人は、そのような間違いがないよう、財布からお金を取り出し、お金が大事と言われたのです。
つまり親鸞聖人は、法然上人の真意を間違いのないように、念仏から信心を取り出して明らかにされました。
これを唯信別開の絶対門と言われます。
行行相対の法門
ではなぜ法然上人は念仏を全面に打ち出して教えられたのでしょうか。
当時、仏教といえば、自力修行の聖道仏教を行う人ばかりでした。
そのような人たちに、他力信心による阿弥陀仏の救いといっても理解できなかったので、念仏行を打ち出されたのです。
これを「行行相対(ぎょうぎょうそうたい)の法門」といいます。
それに対して、親鸞聖人の時代には、すでに念仏が流行していました。
しかし「ただ口に念仏さえ称えれば救われる」と誤解されて広まっていたのです。
そこで親鸞聖人は他力念仏の本質である、他力信心を明らかにされました。
法然上人も他力信心を説かれている
法然上人が『選択本願念仏集』の中で、信心が正因であると教えられていることを、親鸞聖人は以下のように教えられています。
速入寂静無為楽
引用:教行信証行巻(正信偈)
必以信心為能入
書き下し文:「速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心を以て能入と為す」といえり
「寂静無為の楽」とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことだから、弥陀の浄土に生まれるには、必ず信心が要りますよ、と断言されています。
どんな心で念仏を称えて救われるのか、法然上人も明らかにされています。ただ念仏を称えさえすれば弥陀の浄土へ往けるわけではありません。他力信心が正因なのです。
編集後記
真言宗の僧侶、明遍が見た夢のエピソードで、「天王寺の西大門に憐れな病人が沢山集まっていた」ところ、病人の口に一人ずつ重湯を入れてやっていた聖者として法然上人が登場します。
西大門は、四天王寺の門であり、このようなエピソードからも、法然上人が当時大阪によく訪れていたのだろうと言われています。
大阪の地には、法然上人の時代から阿弥陀仏の本願が伝えられていたことがわかります。
法然上人のご恩を感じつつ、浄土真宗親鸞会大阪会館でも、阿弥陀仏の本願一つ、聞かせていただきましょう。