今回は、久宝寺御坊と呼ばれる顕証寺の前身、西証寺(さいしょうじ)の建立について紹介します。
西証寺の建立
蓮如上人は75歳で本願寺住職をご子息に譲られましたが、その後も大阪に何度も訪れ、布教活動を続けられていました。

そして78歳頃、聖徳太子が開かれたとされる久宝寺跡に「西証寺」を建立されました。
(※西証寺の成立時期は複数説がありますが、今回は八尾市ホームページの明応年中(1492~1501年)を参考に蓮如上人晩年説を参考にしました。他にも1470年(文明2年)、1479年(文明11年)とする説があります。)
もともとは11男実順が住職となっていましたが、若くして亡くなったため、6男の蓮淳(れんじゅん)が兼任住職となり、後に顕正寺と名称を変えています。
その後、河内国(河州)11郡の各末寺を束ねる巨刹(大きな寺)となっていきました。
西証寺が建てられた久宝寺村は、旧大和川流域の交通の要所であり、蓮如上人が布教をするにあたって重要な土地と見極められていたことがわかります。
また石山本願寺が建立されたあと、防御の際に必要欠くべからざる地となり、ますます重要視されていきます。
そして顕正寺を中心に、久宝寺町は寺内町として発展し、歴史の表舞台に登場するようになりました。
1492年(延徳4年)について
1492年(延徳4年)当時の様子が、御文章に書き残されています。
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。
かくのごとくこころえのうへには、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
延徳四年六月日
御文章四帖目九通 疫癘
疫癘とは、流行病のことです。当時は感染症が蔓延していたため、疫病平癒の法要が行われたり、疫病を理由に元号が「延徳」から「明応」に変更(1492年7月28日に変更)されるなどして、一刻も早く平穏な日々に戻ることを祈られていました。
このような中で、四帖目九通は、無常を見つめ、一刻も早く阿弥陀仏の救いに遇うよう教え導き、私たちが本当になすべきことをあきらかにされています。
この御文章から蓮如上人は、飢饉や疫病が流行る中、私たちの後生を案じ、足を止めずに大阪に親鸞聖人の教えを伝えてくださっていたことがわかります。
編集後記
蓮如上人は各地域に移動されていましたが、飢饉や疫病が流行るなど、決して安全であったわけではありませんでした。
「あわれあわれ、存命の中にみなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」(不憫だなあ、命のあるうちに、みなみな信心決定してもらいたい。終日思い続けているのは、そのこと一つである)と言われる蓮如上人の悲願がますます知らされます。
私たちは蓮如上人のご苦労を無駄にしないよう、大阪会館で真剣に聴聞させていただきましょう。
