今回は、顕正新聞昭和61年11月15日号に掲載された、大阪国際貿易センターでの高森先生のご講演録を紹介いたします。
大阪国際貿易センターは、現在のグランキューブ大阪(大阪府立国際会議場)になります。
10月18日~19日のご講演録
仏教とは阿弥陀仏の本願一つを説かれたものである。
本願とは誓願ともいい、お約束ということだ。阿弥陀仏は、大宇宙すべての人を相手に、すばらしいお約束をしておられる。必ず信楽の心に生まれさせてみせる、というのである。
信楽とは
信楽の信とは大安心の心、変わらない明るい心。
楽とは大満足の心、変わらない楽しい心である。親鸞聖人はこれを無碍の一道と仰有った。今死ぬとなっても、何のさわりにもならない大安心、大満足の身、これが無碍の一道である。
この世界まで出るためには、人間の苦しみの根源である無明の闇を解決しなければならない。阿弥陀仏が「必ず信楽の心にしてみせる」とお約束しておられるのは、必ず無明の闇を破ってみせる、というお誓いなのである。
すべての人は苦しみをかかえて生きている。ところが、苦しみの根源を知らない。
貧乏に苦しむ人、家庭不和に悩む人、病気で寝たきりの人など、苦しみも様々である。
苦しみの原因は何か
そんな人たちが考えることは、「自分が苦しんでいるのは、金がないからだ」「家庭さえうまくいけば」あるいは、「病気さえ治れば楽になれる」といった程度のことだ。
しかし、もっと深く考える人は、たとえ金が有っても、また健康であっても、苦しみは少しも無くならないことに気が付く。やがて苦しみの原因は煩悩であると考える。
煩悩とは私たちを煩わせ、悩ませるもので、欲の心、怒りの心、愚痴の心などである。無ければ欲しいと思い、有れば有るで「もっと欲しい」と思うのが欲の心。こんな心があるから、恵まれても、恵まれなくても、苦しむのだ、と考えるのである。金や物の無いことが苦しみの原因だ、と思っている人より、深い見方といえる。
しかし、煩悩もまた苦しみの真の原因ではない。煩悩が苦しみの真因とするならば、私たちが幸せになるには、煩悩をなくしてしまわねばならない。果たしてできることであろうか。
親鸞聖人は、人間を、「煩悩具足の凡夫」と仰有った。煩悩に目鼻をつけたようなものが私たちであり、煩悩を離れて私というものはない、と教えられたのだ。だから、煩悩をなくせ、と言うことは、死ね、と言うに等しい。そんなことができる筈がない。
そこまで深く考える人は、煩悩よりもっと奥底に、苦しみの原因があることに気付く。それが無明の闇であり、私たちのまた本心なのである。
近すぎてわからぬ本心
本心であるのに、何故気付く人がいないのであろうか。それはあまりにも近すぎる存在だからである。
「目、目を見ることあたわず、刀、刀を切ることあたわず」
と言われる。なんでも見る目でも、自分の目を見ることはできない。
いかに鋭利な刀剣でも、刀自体を切れない。あまりにも近すぎる存在だから。
同じように、近すぎるが故に、わからないのが自己の本心、無明の闇という心である。
それが、いざ臨終を迎えると、後生暗い心となって、知らされる。文字通り明かりのない心、闇の心である。
暗い心のまま死ねば、後生(死後)は、真っ暗な、苦しみの世界へと堕ちてゆかねばならない。
これを後生の一大事という。
無明の闇を晴らすには
仏教の目的はこの後生の一大事の解決であり、そのためには無明の闇を破っていただかなければならない。
大宇宙広しといえども、無明の闇を破る力のある仏は、阿弥陀仏しかないのである。
だからこそ釈尊は、阿弥陀仏のお約束一つを説くことを出世の本懐とせられたのである。
それを聞きぬくことがまた私たちの出世の本懐となるのだ。
一日も早く、信楽の身にさせて頂けるよう、聞法しなければならない。
編集後記
私たちが聞法をする目的と、阿弥陀仏の本願について詳しく教えていただきました。
昭和のご説法の内容ですが、今も一貫して教えていただいています。
阿弥陀仏の本願について、これからも大阪会館で共に聞かせていただきましょう。