今回は、石山合戦に参戦した安芸門徒・藤原左衛門について紹介します。
1500年代の戦国時代。激しい無常の嵐の仲、武士たちも農民たちも親鸞聖人の教えに救いを求めていました。しかし、その教えが広がることを恐れた織田信長は、浄土真宗への苛烈な弾圧を企てます。
現在の大阪城のある地に、かつて石山本願寺がありました。絶体絶命の危機に瀕した石山本願寺を守るため、命を懸けて立ち上がった一人の親鸞学徒がいました。彼の名は、藤原忠左衛門。
その人が掲げた旗に書かれた言葉を見ると、今も多くの親鸞学徒の聞法心を引き締めます。
石山本願寺とは——大阪の地に築かれた門徒の砦
今から約450年前、戦国時代の大阪に石山本願寺がありました。
現在の大阪城本丸の地に建っていたといわれる石山本願寺は、浄土真宗の拠点の聞法道場であると同時に、堅固な城郭を備えた難攻不落の砦でもありました。
当時、天下統一を目指す織田信長は、石山本願寺の明け渡しをはじめとする無理難題を要求しました。しかし、第11代門主・顕如はこれを毅然と拒否されます。
顕如はそう全国の親鸞学徒と共に、親鸞聖人の教えを護り抜くため信長との戦いに挑まれました。こうして始まった石山合戦は、1570年(元亀元年)から約10年にわたる、日本史上まれにみる壮絶な篭城戦となりました。
石山合戦については以下の記事もお読みください。

武士を捨て、農民の道を選んだ忠左ヱ門
この石山合戦に参戦した親鸞学徒の一人が、藤原忠左衛門す。
忠左衛門は、若いころ安芸国(現在の広島県)の篠原城に武士として出仕していました。同じ武士仲間であった善恵(後に出家し長善寺を開く)とは、義兄弟の契りを結んだ深い仲でした。
しかしある時、2人は武士であることを辞めます。善恵は出家の道を選び、忠左衛門は一族を引き連れて大三島の西端・口総(現在の愛媛県今治市大三島の西部)へ移り住みました。荒廃した土地を自らの手で開墾し、浄土真宗の僧侶となった善恵と交流し、親鸞聖人の教えを聞き求めながら農耕に励む。
小さくとも、自分たちの理想の農村郷を築いていました。
忠左衛門が農民として大三島で過ごした年月は、すでに50年にもなり、80歳を超えていました。
顕如上人の檄と、安芸門徒の決起
天正4年(1576年)、事態は大きく動きました。
信長軍に四方を包囲された石山本願寺の中には、およそ2万人の門徒が籠城していたといわれます。兵糧と生活物資が底をつき始めた中、顕如上人は西国の大大名・毛利に救済の願状を発しました。
これに呼応した安芸の門徒たちは、石山本願寺の窮地を救わずにはおれないと、毛利軍とともに食糧1ヵ年分と生活物資を調達し、600艇に積み込みます。さらに警護船300艇を従えて船団を組み、石山本願寺へと向かったのです。
そんなある日、長善寺の三世住職・円生から忠左衛門のもとへ使者が来ました。
「村上水軍とともに大坂へ向かい、本願寺を助けていただけないか」
村上水軍とは、当時日本最大の
忠左衛門は80歳を超えていたとはいえ元は武士、若い頃に鍛え上げた肉体はまだまだ動きます。
「これまで流転を重ねてきたこの命、今生こそ真実のために使わせていただこう」
この頼みを引き受けます。
村上水軍の出陣にともに加わることは、信長の弾圧を阻止し、当時の農民たちの生活を守るためにも、避けて通ることのできない選択だったとも言われますが、それだけではありませんでした。
親鸞聖人の教えを護り切らなければ、これから多くの親鸞学徒が地獄に堕ちることとなります。
こうして、農耕船に物資を積み込んだ忠左ヱ門以下19名が、これからの親鸞学徒のために出陣したのでした。
黄旗に込めた祈り——「進者往生極楽 退者無間地獄」
船の舳先には、黄色い麻の旗(キハタ)が掲げられました。
縦88センチ、横66センチのその旗には、大きく墨で書かれた言葉があります。
進者往生極楽 退者無間地獄
意訳:進めば極楽往生を遂げ、退けば無間地獄に堕ちる。
一般的にはそのように読まれるこの言葉ですが、注意深く旗を見ると、「往生」の「往」の字のつくりが「主」ではなく「生」。辞書には存在しない文字です。「生」への強い思いを感じられます。

その文字に込められた思いを受け取ると、「若不生者不取正覚」と必ず信楽の身に生まれさせてみせる、という阿弥陀仏の命をかけたお約束が思い出されます。
そして兜の正面には「南無阿弥陀仏」の札が飾られていたといいます。
「一向専念無量寿仏」が、かれらの心の支えでした。
血に染まり虫食いの跡が残るその黄旗は現在、広島県竹原市の長善寺に保管されています。
10万石の兵糧を届けた日——天正4年7月15日
天正4年(1576年)7月15日、歴史的な海戦が大阪の木津川河口で始まりました。
毛利水軍・村上水軍の連合艦隊800艘が、信長軍の防衛線を突破して石山本願寺へ兵糧を届けようとしたのです。忠左衛門の一隊は、この800艘のうちの1艘として加わっていました。
この日の戦いの様子は、『信長公記』に次のように記されています。
7月15日のことであった。中国筋安芸の水軍……が、大船七、八百艘を率いて大坂の海上に来航し、大坂方に兵糧を補給しようとした。……海上では、敵は焙烙火矢というものを作り、味方の船を包囲して、これを次々に投げ込んで焼き崩した。多勢にはかなわず……安芸の水軍は勝利をおさめ、大坂へ兵糧を補給して、西国に引き揚げてしまった。
出典:中川太古訳『信長公記』下巻(新人物往来社)
村上水軍は、信長相手に見事に任務を遂行しきったのでした。
本隊の水軍は西国へと引き揚げましたが、忠左衛門の一隊はそのまま大坂に残り、石山本願寺を守る陣営に加わりました。
尼崎砦での最期と、法名簿の伝承
それから6ヵ月後のことです。
天正5年(1577年)正月21日、帰路の途中ともいわれる尼崎砦で激しい戦闘が起こります。信長軍の攻撃を受けた忠左衛門以下19名は、無念の討ち死にを遂げました。
その後、長善寺には下間按察使頼□の署名のはいった法名簿が届けられたました。
そこには忠左衛門の法名「円心」を先頭に、19名の名前が記されています。
天正五年丑正月廿一日尼ヶ崎砦ニ於イテ討死之事
キハタ組 アキ円西門徒ノ内
円心 忠左衛門……(以下19名の法名と名)
右 読経焼香之条可被○其意事 下間按察使 頼□
意訳:天正5年(1577年)正月21日、尼崎砦で討ち死にした者の記録。黄旗組(キハタ組)・安芸の円西組の門徒として、忠左ヱ門(法名・円心)以下19名の名が記されており、菩提寺・長善寺に読経と焼香による供養を依頼する旨が添えられています。
本願寺中枢の役職についている下間家から菩提寺へ直接連絡が届いたのは、忠左衛門の一隊は特別な任を担っていたためと考えられています。
忠左衛門を始めとする当時の親鸞学徒は、命をかけて親鸞聖人の教えを護り抜いたのでした。
編集後記
80歳を超えた老齢でありながら、阿弥陀仏の本願を護るために命がけで戦いぬいた親鸞学徒がいました。
「進者往生極楽 退者無間地獄」の黄旗は、単なる決死の覚悟を示すものではなく、親鸞聖人の教えを聞き生き抜いてきた一人の人間の信念があらわれています。
先輩方の熱き信仰に負けないよう、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。
