今回は大阪の親鸞学徒、みずさんを紹介します。
これまでの人生について教えて下さい
1987年1月、寝屋川生まれ。
小学2年生の2学期までは寝屋川で育ちました。3月から小学4年生まで長崎にいて、5年生から高校卒業まで香川県にいました。
大学からは神戸にきて、そこから関西に住んでます。
どのような家族ですか?
家族は、父、母、弟の4人家族です。中学までは4人暮らしでしたが、その後父は単身赴任で一人暮らし、私が大学2年生のときに、また寝屋川で一緒に暮らしました。
父は、とてもまじめな人で、仕事を頑張っています。
母は「ザ・大阪人」という感じで、元気があっていつもパワフルで、50代になってから中型免許をとってビッグスクーターに乗って旅行するような人です。
弟はとても性格が優しいです。強い姉(みずさん)の側にいる優しい弟です。
家族との思い出
いろいろなところに旅行にいきました。長崎で暮らしていたときは、ハウステンボスやバイオパークの動物園へ連れて行ってもらって嬉しかったです。


子供の頃
幼稚園から小学校低学年までは、優等生でした。先生の言う事を素直に聞いて、素直に実行でき、とても活発な子どもでした。
習い事は、幼稚園からずっと習字を続けていました。小学生になっても習字はずっと続けていて、部活は最初に、バレーボールを1年間やりました。その後、友達に新体操をしようと誘われてから変更して、5年生〜中学2年の終わりくらいまで続けました。
長崎に引っ越してからも関西弁を使い続けるほど、まわりの目はあまり気にしていませんでした。堂々としていたらいじめられることもありませんでした。他人から「あの人は嘘つきだから付き合ったらダメよ」と言われても、私には関係ないからと思って、自分で友人を選んで付き合っていました。
小学5年生から四国高松に引っ越しても同じような性格でした。
中学生の頃
中学生になってもあまり性格はかわらず、女の子のグループがあってもどこかに所属することはなく、一匹狼みたいな感じで過ごしていましたが、友人関係は良好でした。
転校のたびに人間関係がリセットされると、嫌なことも一回リセットされるので、転校ってメリットがあるなーと考えていて、転校先に順応してもしなくても良いって思えていたので、無理しない生活ができました。
高校生の頃
高校は進学校に行き、テニス部に所属し、部活がない日は友人ともよく遊んでいました。
高校2年生のときの文化祭がとても楽しかったです。
私はあまり協調性がありませんでしたが、みんなが頑張っていたら私も混ざって、スタッフとして頑張りました。
でも高校生のときにちょっとショックなことがあって、振り返るとここで性格が少し変わったように思います。
大学生の頃
24時間テレビなどの影響で、大学に行ったらボランティアをしたいと考えていました。
国際関係の学部があるところで、条例・法律を学びたいと思い、神戸学院大学法学部国際関係法学科に入学しました。
大学1年生から早速、ボランティアサークルに入り、発展途上国で活動しました。
当時私が日焼けしていたこともあり、特にカンボジア人の男性にモテました。
学んだこと
世界の格差社会は、日本と比べられないほど大きく、ショックを受けました。
たとえばタイの首都の子と国境付近の子では、生活環境が全然違い、国境付近では今も地雷がいっぱい埋まっている中で子どもたちが暮らしています。識字率が悪く、看板で地雷の危険を知らせていても、文字が読めないため、子どもたちは平気で地雷原に入っていくのです。
私たちは発展途上国の子供たちの識字率を上げるために、ボランティアに行きました。
村で寝泊まりしていたので、急に停電になり電気が使えなくなるなど、生活も大変でしたが、それ以上に住民の皆さんが大変な環境にいました。
孤児がシンナーを吸って道端でボーっとしている子、地雷原で手足がなくなった子、ゴミ山に住んでいる子、そういう子どもたちを沢山見ました。
そんな環境でも、私たちボランティアスタッフのところに、無邪気な笑顔で近寄ってきます。
24時間テレビを見ていたので頭では世界には危険な環境が沢山あると知ってはいましたが、実際に目で見て、肌で感じたときの感覚は今でも忘れられません。
学校に行きたい、医者になりたい、先生になりたい、と願っていても、自分の努力では今の暮らしから脱出できる可能性がほとんどない子どもたち。
自分の知識と、実際の経験の間に、あまりにも大きな差があると知らされました。
私は絶望のないまま18年間生きてきて、両親の援助で大学にいくことができ、それでも不満を言っている。
自分の人生に何の感謝の心もない私は、ほんとうに価値がない人間だなとまで落ち込みました。
災害ボランティア
国際ボランティアもやっていましたが、国内での災害ボランティアにも参加していました。
顧問の先生とゼミの先生がいろいろなボランティアをやっていて、学部を超えて社会貢献ユニットなどに参加し、そこで学部の単位も取得できる制度がありました。
神戸は災害があったから防災について研究している団体がたくさんあり、そこでボランティアも活発に行なわれています。
在学中に能登中越地震があったときは、復興支援ボランティアにもいきました。能登は若い人が少ないので、ボランティアが貴重な労働力になります。
ただ、もし今だったら時間があっても行けないと思います。震災後の絶望感にメンタルが耐えられないと思います。若くて、先のことをあまり考えていない年齢だったから絶望感を跳ね返せましたが、今の年齢で行くと、飲み込まれてしまいそうになります。
海外でも国内でも世界の現実をみて、もっと自分の目で、いろいろなことを確かめなければならないと思いました。
進路
漠然とNGO団体など、社会貢献できそうなところに就職するだろうと思っていました。
教授に進路相談したところ、
「君は、君自信の幸せを考えなさい。日本で一般企業に就職して、自分の家庭を築いて、自分が幸せになるように生きなさい。」
と言われ、ハッとしました。
その教授は、ボランティアの会社などを経験して、国と協力してボランティア活動をしているような人だったので、余計にボランティアをしながら生きる厳しさ、現実が伝わってきました。
ボランティアを継続・維持することは、相当なエネルギーがいります。大学生の延長のような考えでは難しく、ボランティアの先に幸せがあるとは限りません。その教授も、家族も自分自身も犠牲にしてやってきたといいます。
教授の言葉の真意は、
「覚悟がないのに、ボランティアで生きていくなんて、簡単に口にしてはダメだ」
ということだったと思います。
それを聞いて、私もJAICAなどボランティアの会社に行けないと思いなおし、一般企業に就職しました。
社会人になって
社会人になって、絶望しかなかったです。
最初は生命保険会社に就職して、個人にサービスを販売していました。
でも自分にあっていなかったので辞めて、別の会社に勤めて、ふつうのOLをしていました。
家と会社の往復、彼氏と付き合い、一般的な女性の生活をしていました。
人間関係でちょっと傷つき、そこで一人暮らししようと決意し、25歳から一人暮らしをはじめました。そして少し環境を変えようと、会社と家の往復をやめて、習字を再開しました。
環境が変わって、ストレスが多かったですが、少しずつ社会を楽しめるようになったところで、櫻井さんに出会いました。

仏教との出会いは?
気さくなお姉さんの櫻井さんが、ドーナツを販売していました。
ドーナツを買おうとしていたところ、櫻井さんが、私に声をかけてくれて、そこからたまに話すようになりました。
そしたら櫻井さんから「みーちゃんはもっと友達をつくりなよ!」って言われて、いろいろな人と接点を持たせてくれました。
しばらくして櫻井さんから、仏教の勉強会を紹介してもらいました。
仏教・親鸞聖人の教えで一番関心があった内容はなんですか?
はじめは、因果の道理の話でしたね。
最初は理解できないところがあり、受け入れられず、原因が、全部自分にあるとは全然思えませんでした。
そのとき、中村まよさんから「縁」について何回も教えてもらいました。
私は同じ職場の元彼とギスギスした関係になり、これからの接し方にずっと悩んでいました。そのとき「縁が変えられないときは、自分が変わればいいんだよ」と教えてもらって、やっと因果の道理の意味がわかりました。
でも自分の行動は変えられないと思っていました。
嫌いな人がいて、どうしてもその人に笑顔ができず、種まきを変えられなかった、とまよさんに相談したことがあります。
その時「みーちゃん、笑顔をしようと思っただけでも種蒔きなんだよ」と言ってもらって、意業について教えてもらいました。
自分でも種を撒けていたんだと気づき、感動しました。
なぜ生きるを拝読
ある時、オーロラを見に行きました。
その出発前に、「なぜ生きる」のご著書を貸してもらい、飛行機の中で拝読しました。
「人間はなんのために生きるのか」というのをずっと考えてきました。
カンボジアの子どもの命と、私の命はどっちが尊いのか。ずっと心にひっかかっていました。
昔、生きる意味について友人にたずねたことがありました。
すると「めんどくさい奴だな」と冷やかされてしまい、自分の中でその問いにそっと蓋をしていたように思います。
それでもずっと「何のために生きるのか」と自問自答してきました。
飛行機の中で、はじめて親鸞聖人の教えを意識しました。
仏教を聞き続けようと思ったのはなぜ?
「生きる目的はこれだ!」と頭ではわかるけど、信じたくない、なんか受け入れがたい、みたいな気持ちがずっとありました。
でもまよさんが、一生懸命話してくれて、なんでそんなに一生懸命なんですかと聞いたら、
「一生の友だちだから伝えたい」と言われて、こんなに思ってくれる人はいないと思いましたし、仏教に対する受け心が少し変わりました。
因果の道理に従って生きれば、どう生きるかは良くなっていくことはわかりました。
でもたしかに、「なぜ生きる」かがわからなければ、どう生きるか、だけでは人生幸せになれないということも、経験してきたことからわかります。
『なぜ生きる』の表紙に「人生の目的は、万人共通唯一である」と書かれていて、それが知りたいと強く思いました。
地雷原に住んでいない私たちの命と、カンボジアの子どもたちと、命の価値に差があるのか。生きる目的が人それぞれだったら、命の価値も人それぞれに思え、価値があるのかないのかわからなくなります。
万人共通唯一の生きる目的があってはじめて、命が尊いと思えます。
そのような生きる意味を、すべての人が知らなければならないと思いますし、私が一番知りたいことが仏教にありました。
大阪会館について、どう思いますか?
毎月参詣させてもらっていて、子供部屋もあって、親子で聴聞でき有り難いです。
子どもの先輩もいるし、親としても子育ての先輩もいて、いい刺激になっています。
仏教を聞きやすい環境を作ってもらっていますので、これからも聴聞させていただきます。
今後の抱負
親鸞聖人の教えをしっかり聞かせていただき、教学を一生懸命学んで、子どもたちに伝えられるような、親になりたいです。
出産するときは、親が途中で死んだりして子どもが幸せになれないかもしれないと考えたけれども、子どもたちに、生まれた意味を教えてやりたいと思います。
そして人生を楽しく生きるためにも、仏教は欠かせないので、真剣に聴聞していきたいと思います。
編集後記
大阪会館で夫婦で子どもと一緒に、よく聴聞されています。
大阪会館に飾ってある阿弥陀経のお言葉「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」は、みずさんによる作品です。

みずさんを見かけたら、ぜひ声をかけてくださいね。