存覚上人と大阪布教

今回は、存覚上人の大阪布教について、記事にしました。

存覚上人は、本願寺の法主とはなりませんでしたが、親鸞聖人の教えを多くの人に伝え、大阪で大変精力的に布教されています。

まずは存覚上人について説明します。

目次

存覚上人の生い立ち

存覚上人は正応3年(1290年)6月4日に生まれ、父は三代目法主覚如上人、母は僧教仏の娘播磨の局と言われます。

弟に従覚、妹に愛居護(法名は照如尼)がいました。

最初は前伯耆守親顕の養子となりましたが、その後、覚如上人のもとで育ちました。

存覚上人の出家

13歳の時、乾元元(1302)年に大和中河の成身院の子院である東北院の円月上海に師事し、翌年の嘉元元(1303)年に出家して、東大寺で受戒しました。

この時の実名は興親、号は中納言でした。

しかし、存覚上人は山門(聖道仏教)の修行を願い、嘉元2年に心性院経恵の弟子入りをし、名を親恵と改めました。

嘉元2年8月には、経恵の推薦で尊勝院の玄智に師事し、11月には慈道法親王から山門で受戒しました。

3年間尊勝院に住み、次に日野俊光の養子となり、名を光玄と改めました。この時、慈道法親王の住む十楽院にも仕えていました。

徳治2(1307)年には四季講衆に加わりましたが、祖父の覚恵が亡くなったので勤めを果たせず、十楽院も辞めています。

祖父の覚恵は、恵信尼の息子で、存覚上人を大変気に入っていたようで、所持していた坊舎や下人の権利などの文章を存覚上人に渡していたり、覚恵が亡くなる前夜、存覚上人に「将来大谷の廟堂を守る者なので、適切な房号が必要だ」と言い、尊覚と名付けました。

しかし、尊覚は中山宮の尊覚法親王と同じだったので、存覚と改名しました。

19歳の延慶元(1309)年、樋口安養寺の彰空(西山派開祖証空の孫弟子)から善導大師の『観経四帖疏』の講釈を聞きました。その後、毘沙門谷証聞院観高僧正に師事し、証聞院で居住するようになります。

大谷で覚如上人を扶助

大谷廟堂は、親鸞聖人の墓所であり、代々留守職(管理者・住職のようなもの)が置かれています。

延慶3(1310)年に、覚如上人が大谷廟堂の留守職に就任すると、存覚上人に対し、大谷で同居するように命じたため、存覚上人は10月頃に証聞院を去りました。

その後、存覚上人は他流の師に就かず、大谷で覚如上人の布教を助けながら、門弟の指導にあたっています。

当時、大谷廟堂(後の本願寺)は、まだ寺院として認められず、延暦寺の傘下にありました。

旧大谷廟堂があった場所。

応長元(1311)年に覚如上人は、存覚上人と共に越前大町の如道を訪ね、『教行信証』の概要を伝授されました。

その時、22歳の存覚上人が、『教行信証』を講談しています。

また正和元(1312)年には、安積の法智が大谷廟堂に専修寺の寺号額を掲げ、大谷御廟の寺院化を試みましたが、比叡山延暦寺から反対され、撤去を求められるという事件がありました。

この寺号額の書は、存覚上人が手配したものだったといいます。

この頃には、後に代々本願寺の坊管となる下間家の下間性善(仙芸)を側近に置いていました。

正和3(1314)年の春、覚如上人が尾張へ向かわれた際に、20日余り同行した後、覚如上人が病気になってしまいました。

そこで同じ年の秋、存覚上人25歳のときに留守職を引き継がれました

当時の大谷は参詣者も少なく、経済的に非常に困窮していましたが、幸い安積の法智から灯明料500疋が送られ、何とか年を越せたのは、存覚が継職した年だったといいます。

正和4年春に、覚如上人は一条大宮の窪坊辺に居住を移し隠居されました。

正和5年12月、存覚上人27歳のとき、覚如上人の計らいで妻の奈有を迎えています。

存覚上人が、留守職を引き継ぎ、大谷で居住されていたところ、了源という僧侶が訪ねてきました。

空性房了源を指導

元応2年(1321)年には、空性房了源が、大谷本願寺に訪れ、教えを請うています。

了源は、武蔵の荒木門徒の流れを組む、相模甘縄(現、神奈川県鎌倉市付近)の了円(明光)の弟子であり、宗派が異なっていました。

そこで存覚上人は、一条大宮の窪坊に居住されていた覚如上人を訪れ、どのようにしたらいいか訪ねたところ、覚如上人は、存覚上人に命じて、了源を指導させました。

了源は、元亨3(1323)年8月には山科に一寺を建立し、その寺は、覚如上人より「興正寺」と名付けられました。

興正寺については詳しくはこちらの記事も御覧ください。

ちょうど了源が本願寺を訪れてきた元亨元年(1321年)頃、「本願寺親鸞上人門弟等愁申状」に「本願寺」の寺号が初見され、また元弘元年(1331年)に覚如上人撰述の『執持鈔』に「本願寺聖人」との記載があることから、この頃から本願寺が公称されたようです。

しかし了源が来た頃から、覚如上人と存覚上人との関係性が悪化していくことになります。

覚如上人による義絶

「存覚一期記」には、以下のようにあります。

此両年口舌事相続遂預御勘気之間、六月廿五日令退出、寄宿牛王子辻子

引用:『存覚一期記(元亨二年)』

意味:去年から今年にかけて、覚如上人と存覚上人は言い争いが続き、ついに覚如上人のご勘気をうけ、(1322年)6月25日に大谷を退出し、牛王子辻子に寄宿した。

覚如上人と存覚上人の間に口論がはじまったのは、了源が存覚に入門した翌年頃だといわれます。

そして存覚上人は33歳のときに、覚如上人から義絶されたのでした。

存覚上人は法門御問答御承伏 の義なかりしかば御義絶

引用:『反古裏書』

意味:存覚上人は、覚如上人が教えられる法門やご問答に承服されなかったので、義絶されました。

そしてこの後、暦応元(1338)年までの16年間、義絶は解かれませんでした。

存覚上人は、たとえばどのようなことを言っていたのでしょうか。

義絶の理由

義絶の理由の一つは、存覚上人が親鸞聖人の教えを破ったからだと言われます。

存覚上人は『報恩記』などに、「父母の死後は、追善供養を根本とする仏事を大切にして、親の恩に報いるつとめをはたすべし」「追善のつとめには、念仏第一なり」とまで言い切っています。

これは先祖の追善供養を徹底排除された親鸞聖人の教えを、明らかに破壊するものであり、許されるものではありませんでした。(参考:『歎異抄をひらく』)

一方、存覚上人への義絶は、多くの門徒も悲しみました。とくに常陸などの東国門徒は、京都に赴き、存覚上人の義絶を解くよう、40名以上が参加して連判状を作成しましたが、存覚上人は覚如上人へあえて提出しませんでした。

存覚上人は、しばらく本願寺に戻ることはできませんでしたが、布教の歩みは止めず、その後、信頼を回復され覚如上人からの許しをもらっています。

義絶が解かれるまでに、どのようなご布教をされていたのでしょうか。

執筆と布教

存覚上人は、しばらく了源のもとに滞在し、37歳のときには、了源の尽力もあり住居をかまえ、執筆と布教をされています。

存覚上人は、了源の求めに応じて、以下のご著書を執筆し了源へ渡しています。

「諸神本懐集』2巻(元亨4(1324)年1月12日)

『持名鈔』(元亨4年3月13日)

『浄土真要鈔』2巻(元亨4年4月6日)

『破邪顕正抄』3巻(元亨4年8月22日)

『弁述名体鈔』

その後、元弘元(1331)年には関東に赴き布教し、48歳のときには備後(中国地方広島方面)に行き、法華宗と法論をされています。

法華宗徒との法論

建武4(1337)年、存覚上人は48歳のとき、備後に赴きました。

その時、地元の門弟から希望があがり、法華宗徒(天台法華や日蓮宗)と法論することとなりました。

当時の聖道諸宗は、浄土真宗を排斥、軽蔑していたため、それらに対抗する必要がありました。

存覚上人は国府守護の前で対論し、法華宗徒は存覚上人の理路整然とした説明に屈服したといいます。

そしてこの法論をきっかけに備後に浄土真宗が隆盛しました

このときの活躍が、浄土真宗を弘めることにつながり、義絶が解かれるきっかけとなります。

また備後に滞在中に、同地の門徒からの依頼に応じて、『決智鈔』主・『歩船鈔』2巻・『報恩記』・『法華問答』2巻・『至道鈔』『選択解鈔』5巻、『顕名鈔』等を執筆しました。

49歳~67歳頃までに、祖師先徳方の著述を多数書写し、お弟子へ渡しておられます。

義絶の解消と再度の義絶

暦応元(1338)年7月、49歳になった存覚上人は、京都に戻られました。

同年9月には、滋賀の錦織寺の愚咄が覚如上人へ、義絶を解くよう申し入れ、備後地方での日蓮宗徒が存覚上人との法論に負け、閉口し、退散したことを伝えました。この法論により浄土真宗が多くの人に伝わったのは、存覚上人の活躍があったからだということも伝えたところ、覚如上人は義絶を解かれたといいます。(参考:『鑑古録』)

同じ年に、『顕名鈔』など多数の著書を執筆しています。

やがて、覚如上人と存覚上人家族は、大谷本願寺で同居されるようになりました。

再度の義絶と和解

康永元(1342)年、存覚上人53歳の時、疲れをいやすため、五条坊門室町で湯治のために滞在していると、覚如上人から義絶の一報が届き、本願寺へ戻ることができなくなりました。(出典:存覚一期記)

理由はわかっていませんが、存覚上人の動向に、信認を得なかったのだろうと言われます。

そのため塩小路油小路の顕性のもとに、滞在しました。

55歳になると大和に移動し、その後、京都の六条大宮に住居を構えました。

57歳のとき、大和柏木の願西等のお弟子たちが京都を訪れ、覚如上人との和睦を斡旋したいと申し出ましたが、このときは存覚上人は斡旋することを許されませんでした。

貞和5(1349)年、60歳のとき存覚上人は、覚如上人と和解するために、門徒や門弟へ依頼し、東国や近畿のお弟子方も何人も動きました。

すると覚如上人は次のように仰っています。

本人においてはあながちに子細なし。 これ天性の理なるか。 しかれども讒口絶たえざるあひだ、 左右許諾に及ず日月を送おくる。

引用:『存覚一期記』

意訳:覚如上人ご自身は、「自分は存覚に対して強いて子細があるわけではない、親子は仲良くあるのが自然だが、悪口を告げるものが絶えないから、容易に存覚の義別をゆるすことはできない。」と言われました。

それでも弟子たちが連判状などを提出したり、覚如上人の側近のお弟子も努力したところ、観応元(1950)年の、覚如上人81歳、存覚上人61歳のとき、義絶は解かれ和解しました

その時、摂津・大和などの多くの門徒・門弟の歓喜の声が天にとどろいたと言われます。

存覚上人は、和解のために活躍した時光とともに、大谷本願寺の覚如上人のもとを訪れ、お礼を述べられました。

さらに『存覚一期記』には「両国同朋各含笑歓呼之余参集此所了」と書かれており、多くの同朋・門徒が笑顔で歓喜の声をあげながら、大谷本願寺に集まりました。

しかしそのあとも事情があり、覚如上人と存覚上人が同居することは叶わず、存覚上人はその時の悲しみを「落涙千行、愚矇また離憂に湛えず、頗る袖を湿す」と書かれています。

その後も、存覚上人は義絶を恨むというようなことは全くなく、本願寺の困窮をサポートするなど、覚如上人を最後まで支えられました。

そして覚如上人は和解の翌年である観応2(1951)年に、81歳で遷化されました。

存覚上人は、義絶の前も後も、精力的に仏法を伝えておられます。

大阪でのご布教

存覚上人は、近畿、北陸、関東、東海、中国地方などを訪れ、仏法を伝えられました。

大阪ではたとえば、次のような記録が数多くのこっています。

  • 貞和2(1346)年に磯島で報恩講
  • 貞和5(1349)年には舳淵(大阪市都島区)へ訪問
  • 貞和5(1349)年、和泉国へ訪問
  • 観応元(1350)年には大枝(守口市)の妙覚が京都に存覚を訪問
  • 文和3(1354)年へ豊島訪問
  • 延文元(1356)年には存覚が北河内へ訪問
  • 貞治2年(1363年)に本願寺存覚が豊島庄北轟木(現池田市)に常楽寺を建立
  • 貞治2年(1363年)溝杭へ訪問

とくに淀川に近い北河内では、存覚上人の影響が色濃くみられます。

晩年

存覚上人は晩年、大谷本願寺の留守職(法主)にはならず、本願寺4代目となった善如上人(従覚の息子)の相談役として、引き続きサポートしつつ、布教と執筆を続けました。

善如上人の依頼で70歳の時に、親鸞聖人のお徳を讃えた『歎徳文』を執筆されています。

存覚上人が71歳のとき、弟の従覚が亡くなりました。従覚は、存覚上人が義絶された後、本願寺の事務にあたりつつ引き続き覚如上人と存覚上人のあいだを取り持ち、『末灯鈔』を編纂し、息子の善如上人のサポートも行いました。

また同じ71歳の8月に、存覚上人は、『教行信証』の初めての注釈書である『六要鈔』を記しました。

六要鈔は、蓮如上人も教行信証と同様、表紙が破れるほど精読され(出典:『山科連署記』)、六要鈔の内容を御文章に多数引用しておられます。

存覚上人に対する評価

蓮如上人は存覚上人に対して以下のように仰っています。

存覚は大勢至の化身なりと云々 然るに、『六要抄』には、あるいは三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人の宏才、仰ぐべし」と候う。権化にて候えども、聖人の御作分を、かくのごとくあそばし候う。誠に聖意はかりがたきむねをあらわし、自力をすてて他力を仰ぐ御本意にも叶い申し候う物をや。かようのことが明誉にて御入り候うと云々

引用:『御一代記聞書』

意味:存覚上人は、勢至菩薩の化身である。そうであるのに『六要抄』には、例えば「三心」の字訓などに 「不明である」と書かれ「親鸞聖人の宏才高徳を、仰がなければならない」と、書かれている。存覚上人は勢至菩薩の化身だけれども、親鸞聖人の著作に対してこのように書かれているのだ。私たち凡夫には親鸞聖人の真意は図り難く、仰信しなければならない旨を書かれており、自力を捨てて他力を仰ぐ親鸞聖人の教えのご本意にも、沿っていらっしゃるのである。このような点が、存覚上人の真の名誉なのである。

前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

引用:『御一代記聞書』

意味:蓮如上人が南殿におられたとき、存覚上人ご制作のお聖教の中で、わからないところがあり、どのような意味だろうと、兼縁(蓮如上人の7男)が蓮如上人のもとへ訪れ、尋ねられました。蓮如上人は「名人が深いみ心で書かれていることなのだから、そのままにしておきなさい。これが存覚上人の素晴らしさ、名誉である」とおっしゃられました。

蓮如上人は、存覚上人を、「勢至菩薩の化身」「名人」などと、大変尊敬されていました。

辞世の句

存覚上人は、応安6(1373)年2月28日、84歳でお亡くなりになりました。

以下は、存覚上人の辞世の句です。

「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」

この句について、蓮如上人が解説されています。

存覚御辞世の御詠に云く「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」。この言を蓮如上人仰せられ候ふと云々。さては釈迦の化身なり、往来娑婆の心なりと云々。わが身にかけてこころえば、六道輪廻、めぐりめぐりて、いま臨終の夕、さとりをひらくべしといふ心なりと

引用:『御一代記聞書』

意味:存覚上人の辞世の句に「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」という一首がある。

この句について蓮如上人が仰せになった。

「存覚上人は釈迦の生まれ変わりである。『往来あまたのかりのやど』は、釈迦如来が娑婆に八千偏も往来せられた心である。

この歌をわが身にかけて心得るなら、『生まれ変わり死に変わり、何度も六道輪廻を迷ってきた身が、この世の命が終わると同時に、浄土に往生し仏のさとりをひらく』という心である。

存覚上人が伝えられた親鸞聖人の教えは、蓮如上人の時代にさらに多くの人に弘まっていくこととなります。

編集後記

存覚上人は22歳で覚如上人から教行信証の講義を任せられるほど、深い教学力を兼ね備えていました。

存覚上人は覚如上人に義絶されたということはありましたが、それまで天台法華・日蓮宗ばかりだった土地にも布教のために切り込まれ、親鸞聖人の教えを多くの人に伝えられたり、浄土真宗への批判へ応えるために、門弟の依頼に応じては、多数の著書を書き残されていました。

ただ存覚上人が義絶されていたことや、了源と近かったこともあり、存覚上人の影響で当時多く弘まったのは、本願寺派ではなく佛光寺派だったと言われています。しかし後世、蓮如上人の時代になると、佛光寺派の法主、経豪とともに、佛光寺派の門徒の多くが、蓮如上人に帰依することとなります。

存覚上人のご活躍は、浄土真宗の歴史上非常に重要なものであり、蓮如上人も大変尊敬されていました。

存覚上人の書かれたご著書は、今日、浄土真宗のお聖教として認められ、真宗聖典にも載っています。

存覚上人や蓮如上人が伝えられた阿弥陀仏の本願を、これからも大阪会館で真剣に聞き学びましょう。

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