蓮如上人のご長男・順如上人のご活躍について

順如上人御影

今回は、蓮如上人の時代に活躍され、大阪との関係がとても深い、蓮如上人のご長男である順如上人を紹介します。

目次

順如上人の生い立ち

順如上人についての資料は少ないですが、親鸞聖人の家系に関する「日野一流家系図」によると、1442年(嘉吉2年)に、蓮如上人と如了夫妻の第一子として、京都で生まれられました。

当時の本願寺は、非常に財政難でありました。

父、蓮如上人の生まれる前から本願寺に参詣していた近江堅田の法住は

人跡たえて、参詣の人一人もみえさせたまわず、さびさびとしておわします

出典:『本福寺由来記』

と言ったとされます。

財政難の状況は、蓮如上人の父、存如上人が信州の長沼浄興寺宛てに出した借金の申し入れの書状や、住坊の建築が計画途中で打ち切りになるなどの記録が残っており、また本願寺に訪れては幼い順如上人を可愛がっていたとされる専修寺真慧は

そのころの本願寺、一向不肖の態なり。

引用:高田上人代々聞書

と伝えています。

「一向不肖の態」とは、ぼろぼろの状態である、ということです。

真慧についてはこちらの記事にも書いていますので、お読みください。

経済的な理由もあってか、順如上人以外の兄弟姉妹の多くは、蓮如上人のもとから離れて育てられましたが、順如上人は、両親のもとで育てられました。

青年時代

しかし青年時代になると、本願寺の激動の渦に巻き込まれます。

1455年、14歳のとき、実母である如了が亡くなり、如了の妹である蓮佑が蓮如上人の後妻として迎えられました。

1457年6月18日、16歳のとき、祖父の存如上人が亡くなると本願寺の継職争いが起こり、父の蓮如上人が本願寺8代目法主となりました。

1458年、17歳のとき、順如上人は青蓮院の院家寺院(別院)である天台宗定法寺で得度し、僧侶となりました。(出典:『日野一流家系図』)。順如上人が得度した翌年である1459年から1460年にかけて、異常気象による大飢饉で、京都には数多くの流民や難民が流れ込んできています。

禅僧の大極が記録した『碧山目録』には1462年の正月から一ヶ月間で、京都の餓死者は8万2000人、『大乗院寺社雑事記』によると、京都の餓死者は、毎日300人から600人だったと記録があります。

更に1465年、順如上人24歳ごろ、「寛正の法難」が起こり、延暦寺西塔院の衆徒によって、東山本願寺が襲撃を受け、蓮如上人と家族が、洛中、洛外、河内などへ避難する事件がおきました。

襲撃の状況については、以下の記事をお読みください。

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この襲撃のとき、順如上人は蓮如上人と一緒に動いていたのか、天台宗の寺院にいたのか、はっきりしていませんが、蓮如上人は、まず順如上人と関わりある定法寺に逃げ込み、追撃から免れたと言われています。

順如上人は青年時代、母を亡くされた悲しみや、京都の悲惨な状況、本願寺の危機など様々な苦しい経験をされています。

延暦寺との和睦と譲状

蓮如上人や当時の親鸞学徒が延暦寺との和睦を水面下で進めていると、1467年3月、延暦寺の諸院から赦免状が届きます。その中身は、本願寺側の全面降伏といった内容でした。

西塔院政所集会者
山門西塔院政所集会議日
右白河大谷本願寺者、可専弥陀悲願処 以凡情僻執之宗為本之間、去寬正六年京洛云辺里云、根本枝葉皆以令刑罰处也、爱彼末孫光養丸、守根本一向専宗置畢、新加当院末寺、釈迦堂奉寄分每年参仟疋可奉献之由、依為青蓮院境內之候仁、自御門跡重々御籌策之間、被濃段者也、雖然背契約之旨、且興邪教、且返奉寄、速可令追罰者也、仍為後証角鏡

出典 :『西塔院政所集会事書写』

意訳:本願寺は青蓮院の境内に住む家来なので、青蓮院の御門跡(住職)の御指図により許すことにした。

諸条件は次の通りである。

  • 本願寺は延暦寺を本寺とし、西塔院の末寺として加わること
  • 本願寺は光養丸(後の実如、当時9歳)を住職にすること
  • 本願寺は毎年末寺銭三千疋(約300万円)を延暦寺の釈迦堂に納めること

これらの条件を守れば、浄土真宗本願寺派を認める。

天台宗の青蓮院はもともと、大谷本願寺の破却に反対する立場であり、仲裁に奔走しましたが、延暦寺衆徒との折り合いが付かず、本願寺を延暦寺西寺塔の末寺とする契約を結ばせることで事態の収拾を図りました。

親鸞聖人が当時青蓮院の門主であった慈円のもとで得度をされたことや、蓮如上人も青蓮院で得度をされ、順如上人も青蓮院の別院で得度されており、青蓮院は浄土真宗本願寺派と深い関係があったため、反対の立場をとったのでしょう。

しかし蓮如上人の引退を条件に、本願寺派の存続を許すといった厳しい条件をつけられ、さらに次の条件も追加されています。

但雖爲何時、再興之義在者、重而處罪科

出典:横川楞厳院別当代の書状

意訳:ただし浄土真宗本願寺派を再興することがあれば、何時なりとも重ねて処罰する

本願寺の再興が禁じられるとは、布教活動を制限する書状であり、蓮如上人の動きを完全に封じてきたのです。

そのため蓮如上人は法主の座から降りましたが、長男の順如上人ではなく、幼い実如上人に法主の座を譲りました。

その時の譲状が以下の内容で伝わっています。

大谷本願寺御影堂御留守職事
右件住持職者去文正之比俄光助律師江 申付既讓狀與之訖。雖去其身無競 望由申間、重而光養丸所、讓與實正也。 但就法流無沙汰之子細在之者於兄弟中守其器用可住持者也。次兄弟爲大勢之間無等閑可有扶持者也 若此 條々相背其旨者永可爲不孝者也。
           釈 蓮如 (花押)

出典:『大谷本願寺御影堂御留守職事 』

意訳:右の件について、去る文正のころ突然、順如(光助)に申しつけ、すでに譲状を与えたが、このたび順如が辞退したので、改めて、光養丸(実如)に譲るものである。

ただし親鸞聖人の教えを守ることに関して、万一不都合なことがおこれば、兄弟でよく相談して、抜かりのないようにせよ。次に、兄弟が多いのであるから、助け合うことが大切である。もしこれに背くものあれば、親不孝者である。

順如上人が法主を辞退した理由についてはっきりしませんが、当時延暦寺側が警戒して、順如上人の継職を認めず、蓮如上人が、順如上人が断ったという体裁をとったのだろう、と考えられています。

蓮如上人が最後に兄弟の助け合いについて書かれているところに、「何かあれば順如へ相談せよ」「本当は順如に継がせたかった」という想いが伝わってくるようにも思えます。

この時、蓮如上人は、叡山側の条件をのまれ、法主も辞められましたが、これらは形式的行為にすぎず、滋賀や大阪で布教を続けられたあと、1471年から北陸の吉崎で布教を開始されました。そのとき、順如上人は滋賀の大津近松顕証寺を任せられました。

このあとの順如上人のご活躍を紹介します。

順如上人の活躍

順如上人の特徴的な動きは、公家や武家の人々と交流を深めていたということです。

実語上人の書かれた『蓮如上人仰条々』に次のように記されています。

蓮如上人は佛法方ばかり仰せられい時、順如は 住持分にて、世上の儀よろづ扱いし候ひし事也。(中略) 禁裏の御事武家將軍家の事の已御扱候し事也

引用:『蓮如上人仰条々』

意訳:蓮如上人が北陸布教を専念していたころ、大津に残った順如は、本願寺住持の肩書で、公家、武家、将軍家との交流を深め、広く活動されていました。

順如上人の実母は、室町幕府の公家である伊勢氏の出身でありました。

また妹の妙宗(第九子)が足利義政の娘である春日局のもとに奉公していました。

このような縁などをたよりに、交流していたのだろうと想像されています。

順如上人の人柄が伝わる次のエピソードが伝わっています。

順如上人の裸舞

順如上人で有名なのは「裸舞い」です。

8代将軍足利義政との酒の席で、義政が「裸舞い」を命じました。順如上人は、困惑しましたが無碍に断れず「これも仏法を伝えるため」と裸になり、能楽の「春日竜神」のきり(終りの部分)を歌いながら、見事に踊りきったといいます。

義政から大変称賛され、その話があまりにも話題になってしまったため、順如上人は度々酒の席で、「裸舞い」を所望されたといわれています。(参考:『天正三年記』)

「裸踊り」は盛り上がったとは言え、一般的には屈辱的とも思える命令でした。

しかしこのような命令も受け入れ、幕府と本願寺の関係を保つために懸命に努めていた順如上人の姿がうかがえます

蓮如上人時代の本願寺は、ときの権力者の協力や庇護もあり成長を遂げた面があります。

それは順如上人の手腕によるところも大きく、蓮如上人からの信頼は大変厚かったと考えられています。

順如上人は、京都ではこのように交流をし、基盤を固めながら、北陸布教をされる蓮如上人を支えていました。

吉崎からの脱出

蓮如上人の吉崎での布教は最初順調でしたが、だんだんと一揆の暴走の歯止めがきかなくなってしまいます。

蓮如上人の本願寺側と加賀国の冨樫政親との対立が激しくなり、蓮如上人の身に危機が差し迫ってきます。

緊迫した状況を把握した順如上人は、1475年、急ぎ吉崎へ向かい、隠密に蓮如上人の吉崎からの脱出を助けたのでした。

先に船を降りた順如上人は、大阪の出口御坊で蓮如上人を受け入れる準備をしたようです。

出口御坊については、こちらの記事もご覧ください。

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蓮如上人が大阪に到着された後も、引き続き本願寺の寺務を代行していたと『本願寺作法之次第』(実語著)に書かれています。

仏光寺派経豪の参入

順如上人は、他宗派の人からも信頼を得ていました。

仏光寺派の経豪が、一族内の確執に悩んでいたところ、順如上人に相談し、順如上人が、経豪一派に本願寺派へ参入する機会をつくりました。

浄土真宗の名門である仏光寺派からの参入は、幾内の浄土真宗の各宗派に大きな影響や動揺を与え、さらに多くの宗派が本願寺派に参入することとなりました。

経豪の帰依については、こちらの記事もお読みください。

順如上人は、滋賀の大津顕証寺に住持していましたが、高槻の出口御坊光善寺を与えられており、大阪では引き続き蓮如上人の相談役となり、大変な活躍をされたのでした。

順如上人の死去

しかし順如上人は、蓮如上人よりもかなり早く、42歳で亡くなりました。死因はお酒の影響などと言われていますが、滋賀に住まいしながら、京都、大阪と、さまざまな人と交流を深め、仏法を伝えながら、蓮如上人を最後まで支え続けたご一生でした。

蓮如上人の中では、順如上人を北陸に派遣して、住職にする予定があったといいます。

自本越前国吉崎御坊ハ御本寺ノ霊場トシテ御留主ニ御同宿ヲ仰付ラル。 急テ願成就院法印カサネテ御下向ヲ被成 御住持アルヘキ御アラマシニテ蓮誓モ可在御同道旨被仰シガ、文明五年廿九日、四十二歳大津ニテ御遷化アリ。 御影ハ出口ノ光善寺ニノコシ玉ウ 其御息女住玉フ故也

引用:顕誓著『反古裏書』

意訳:越前国の吉崎御坊は、本覚寺の蓮光に留守を頼んでいたが、急いで順如を吉崎に住持として派遣し、補佐として蓮誓も同行させようと考えていたところ、文明15年(文明五年は著者顕誓の間違いのようです)、42歳で大津にて亡くなった。

順如の真影は、出口御坊光善寺に残している。順如の娘が住んでいるからである。

蓮如上人は、順如上人の死について一言も書き残されていませんが、蓮如上人は唯一、光善寺に残された順如上人の絵に、手書きでこのように裏書きされています。

文明十五癸五月廿九日入寂
河内国茨田郡山本村中番
出口新坊常住物也
   釈 蓮如 (花押)

引用:出口御坊光善寺順如上人真影裏書き

生まれてからずっと蓮如上人のもとで育てられ、蓮如上人の危機を助け、本願寺の中心となって蓮如上人を支え続けた順如上人の死への悲しみが、この文字におさまっているように思えてなりません。

編集後記

大阪の浄土真宗の発展は、順如上人のようなご子息の活躍もあって、成し遂げられたものでした。

順如上人の死は大変な悲しみであったでしょうが、蓮如上人は少しも立ち止まることなく、親鸞聖人のみ教えを多くの方に伝えられました。

親鸞聖人の教えは、簡単に伝わったものではないことを知り、大阪会館で一座一座を大切に聞かせていただきましょう。

順如上人御影

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