今回は、奥様をこよなく愛する原田敏博(としひろ)さんを紹介します。
大阪では老若男女、誰とでも親交を深める原田さん。
大阪で知らない人はいないのではないでしょうか。
原田さんがどのような人生を歩み、これからどのようなことをお考えなのか、迫ってみたいと思います。
原田さんの出生
原田さんは昭和20年(1945年)、終戦の年に島根県安来市(やすぎし)に生をうけました。
敏博さんのお父さんの名前は「敏」さん、お母さんが「博子」さんで、お二人のお名前から一文字ずつ取って名前をつけられたといいます。
そして3人兄妹の長男です。
安来市で有名な踊りで、原田さんも得意とする?「安来節」があります。動画がありましたので紹介しておきますが、原田さんへお願いすると踊ってくださるかもしれません。
また安来市はたたら製鉄でも有名で、良質な砂鉄がとれたため、鉄の交易によって多くの富とさまざまな文化が集まりました。
さらにたたら吹きとよばれる手法で、日本刀の原材料であった和鋼を精製し、数多くの美しく神秘的な日本刀が作られました。
刀はあまりに硬すぎると折れやすいため、刀に軟鉄をつけ焼くことで、美しさと切れ味の鋭さがうまれるということです。
近代において玉鋼精製技術を受け継いで開発された「安来鋼」(やすきはがね)と呼ばれている鋼は、世界中で様々な用途に使用されています。
原田さんの親交の深さや、品格の原点は、安来市のこのような文化に育まれたのかもしれません。
来阪の経緯
原田さんは松江工業高校を卒業した昭和38年(1963年)に安来市を出て、岡山の倉敷レイヨン(現クラレ)へ入社。現在のクラレのホームページは、こちらです。
原田さんは、岡山入社直後から、短・長ポリエステル繊維の操業化に伴い、両繊維の開発・技術に携わります。
昭和57年(1982年)に大阪転勤後には、紡績・編織・染色の技術者として全国の繊維産業地を回りました。
旅好きに火がつき、社内結婚だった奥さんと北海道から沖縄まで、45都道府県を訪れています。
1998年には奥さんと韓国へ行き、1999年には肌着用原綿関係で、ドイツやフランスへ出張したのが、海外への足掛かりとなりました。
パスポートや思い出の写真は、記事の最後に紹介していますのでご覧ください。
日本では編織物や不織布の開発に取り組み、それを海外のバイヤーに持っていき、非常に良い取引ができたといいます。
海外へは奥様とプライベートで12回、出張では68回も訪れ、その行き先も台湾、香港、ロサンゼルス、ブラジル、ハワイ、パリなど様々、特に訪れたのは中国で、その回数は45回にも上ります。
再訪のロサンゼルスではディズニーランドを楽しみましたが、翌朝は9.11のテロの影響により、奥さん、お孫さん、お嫁さんの4人でホテルへ缶詰めとなり、5日間帰国が遅れるなどの、苦労も味わったといいます。
長男一家や、次男一家と海外を訪れたこともあり、「20年ほどで公私26カ国(80回)の海外は記憶の財産となっています。」と語る原田さんは、今は世界ふしぎ発見や、異郷の迷宮グルメ、ドローン映像や世界地図を見ながら懐かしみ、楽しむ日々だと話されました。
原田さんの活躍
課長だった頃の原田さんの活躍を紹介します。
1982年に岡山事業所から大阪へ移り、ポリエステル短繊維の研究開発に配属された。当時は、綿混用のレギュラー品がほとんどの時代。そのとき開発した「パナパック」は差別化原綿の先駆けといえる。
いまは販売後すでに約20年経つ抗ピルの短繊維だが、それまでの同繊維はピリング性にばらつきがあり、毛玉の発生はさけられなかった。それを解決したのが「パナパック」だった。
現在ではありふれている、ポリエステル100%のインナーを実現したのは、これが最初だ。その後、スポーツ衣料向けのニット素材として定番化した。フランスの下着メーカーにも採用され、「最初の海外出張は技術指導でフランスだった」と原田は振り返る。
この功績により、原田は1984年の社内有攻賞1級を受賞している。
引用:繊維ニュース
勤続年数は52年半、70.5歳まで繊維業界の最先端を走り続けられ、世界中を駆け回った原田さん。
どのようにして、仏法と出逢ったのでしょうか。
最初は息子さんから
原田さんに仏法を伝えたのは、息子さんからでした。人生の目的があるということで聞いていましたが、息子さんとは最初はなかなか時間が合わず、あまり話ができませんでした。
奥さんが先に仏教を聞き始めたといいます。
その後息子さんに誘われ、1989年頃に高槻であった浅野講師の勉強会に初めて参加しました。
原田さんに「息子さんから仏教の勉強会と聞いて、どういう思いで、聞きにいったのですか」と質問したところ、
「息子から誘われたならそりゃ最初は聞きにいく。でも聞いてもあかんかったらNOという。聞かずになんでも最初からNOとは言ったらいかん」ということでした。
もともと原田さんのお父さんが別の家に養子に入り、そこで原田さんの実家は浄土真宗となりました。中高生の頃(安来時代)には「出家とその弟子」(著者:倉田百三)の本を読んでいて、親鸞聖人に関心があったということです。
その後、高森先生のご講演に参詣し、「因果の道理」について話を聞かせて頂いたところ「この教えは聞き続けなきゃいかん」「何事においても原因と結果がある、というのは明快だ」と思い、聞き続けられるようになったということでした。
今後について
最後に、今後の抱負について聞きました。
「コロナなどもあって仏法を聞きにくくなりましたが、配信だけではなく、今 先生に家に来て話をしてもらったり、大阪会館に行って話を聞きたいと思っています。」
「コロナで外出は減りましたが、大阪会館だけは参詣するようにしています。」
ということでした。
また私(作村)も大阪会館でゆっくりお話をしたいです。
編集後記
原田敏博さんは「メモ魔」で、どんなことでもメモに取り、自分で資料を沢山つくって残されています。メモを見せていただきましたが、まるでレオナルド・ダ・ビンチのようでした。(参考:ダ・ヴィンチを万能の天才にした“3つの魔力”【メモ魔編】)
何を聞いても答えられて大変博学で、相手に合わせて話されるので、老若男女問わず、話ができるのだとわかりました。
インタビュー時間も長く取っていただき、沢山資料をいただいたので、まだまだ書ききれていないことが多いですが、大阪会館で原田さんをみかけたらまたいろいろ聞きたいと思います。
最後に、いただいた写真と写真の説明を一部紹介します。
アラブでの思い出
終盤、選んだ子羊が焼かれて、バラバラにパエリアの上に乗せられて出てきました。2個の目玉は主賓の原田さんと同行した社友が食べました。
ヤシマグを頭にかけてイカール(黒輪)で押さえ、白トーブ(男用シャツスカート)を持つ様子。押売りされそうになったそうです。
帰国土産にエージェントから甘い苺味,オレンジ味等を持たされました。
パスポートの記録
その他
ドイツ、フランス、ベルギー、スイス、オーストリア間の黒矢印は、車の助手席でナビゲーターとして地図を見ながら顧客訪問し、約4000 kmを走破したルートです。イタリアの東西は電車です。
朝青龍の頃(今、甥の豊昇龍が頑張っています)。
永年 愛用のメモ帳は薄くポストイットの50×76ミリが中に収まる小さい物。赤黒2色ボールペンとスマホを常に胸ポケットに携行し記録 。外出時は100%携行しています。