津国郡家(高槻市)の主計の改心

郡家本町蓮如上人腰掛けの石

今回は、蓮如上人が山科本願寺を建立された時、高槻市あたりに住んでいた「主計(かずえ)」について紹介します。

主計は蓮如上人御一代記聞書に登場する人物です。

津国郡家の主計と申す人なり。
暇なく念仏申す間、ひげを剃るとき切らぬことなし、
忘れて念仏申すなり。
人は口はたらかねば念仏もすこしのあひだも申されぬかと、
こころもとなきよしに候ふ。

引用:『蓮如上人御一代記聞書』(62)
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郡家の主計について

文明十二年(1480年)、ちょうど京都の山科本願寺が完成した頃、津国の郡家という村に、強欲な主計(かずえ)という人がいました。

出身は、太平記にも登場する葦名判官(蘆名盛員、鎌倉時代末期の武将)の一族、主計頭(かずえのかみ)葦名義道の家系といわれています。

主計頭とは、国家の財政をつかさどった官僚の長官で、「主計」の名称は、もとは官名でしたが、後世では人名にも用いられるようになりました。

蓮如上人御一代記聞書に登場する郡家の主計は、由あって北摂郡家山にきて、下村姓を名乗り、草庵を結んでひっそりと暮らしていました。

主計は、当時殿原と呼ばれた地侍層だといわれており(出典:『高槻市史第1巻』)、もともとはお金持ちだったのですが、何かトラブルがあったのか、非常に貧乏になってしまいました。

蓮如上人の対機説法と改心

そこでなんとかお金持ちになりたいと常日頃思っていたので、ある時、京都東山の清水寺の観世音堂に七日間参籠して、

「大金持ちになって、
 幸福になれるように」

と祈願しました。

すると、ある夜の夢に、観音菩薩が現れて、このように告げたのです。

汝、福徳をえんと思わば、
山科に至るべし。
彼処に尊き聖あり。
必ず福を与うべし

引用:『蓮如上人縁起

(そんなに福徳が欲しいのなら、山科へ行け。山科には尊いお坊さまがいらっしゃる。そのお坊さまの話を聞くと、必ず最高の福徳を与えてくださるであろう。)
 
夢さめて、主計は大いに喜び、直ちに山科へ向かいました。

地元の人に、

「この地に、尊い聖がおられるはずですが、
 お住まいは、どちらでしょうか」

と尋ねました。

すると、人々は皆、

「それは、蓮如上人のことでしょう」

と教えてくれました。

主計は、山科本願寺へ行き、上人の御前で、夢の一部始終を話し、臆面もなく申し上げました。

「私は金持ちになりたいのです。
 山科へ行けば必ず幸福になれると、夢のお告げがありました。
 どうか私に、大金持ちになる方法を教えてください」
 
蓮如上人は、この的外れの来訪者の言葉を、にこにこと聞いておられました。

心得違いを叱られるのではなく、このように諭されたのです。

上人のたまわく。
われ福徳を与べし、
我もとへ五十日参詣して、
わがすすむる所の法を
よく聞べしと

 引用:『蓮如上人縁起

そうか、分かった。
 ならば私のもとへ五十日間参詣し、
 私が説く仏法をよく聞きなさい。
 聴聞すれば、必ずお前の願いが
 かなうだろう

主計の喜びは大変なものでした。
そしてその翌日から、熱心に聴聞を始めたのです。

ひたすら聞法に励んでいたある日、
ご説法中に、主計が声をあげて泣き出しました。

「私は間違っていました。
 どんな大金持ちになっても、死んで後生へ旅立つときには、少しも持っていけません。
 夢か幻のような、この世の幸福ばかり追い求めていました。
 そんな我らを哀れに思し召され、この世も未来も、最高無上の幸福に救うと誓われた阿弥陀仏のましますことを、まったく知りませんでした。

 なんと浅ましい自分だったのでしょうか」

と、涙ながらに懺悔するのでありました。

蓮如上人は、

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

引用:高僧和讃

という親鸞聖人のご和讃を読み上げられ、
信心獲得とは、大宇宙の大功徳のおさまっている
南無阿弥陀仏が我がものになったことだと、懇ろに説かれました。

億万長者などとは比較にならない、大安心、大満足の幸福に救われるのです。

蓮如上人のお弟子となった主計

主計は、蓮如上人のお弟子となり、円立妙慧という法名を賜りました。

摂津国郡家(大阪府高槻市郡家)にある郡家御坊妙円寺が、主計を開基とする寺です。

郡家本町蓮如上人腰掛けの石

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