今回は、蓮如上人御一代記聞書にも登場する、大和の了妙のエピソードについて紹介します。
当時の大阪堺にいた堺の日向屋という人物と対比して、お話しされています。
本当の宝とは
蓮如上人は以下のように了妙について述べられています。
堺の日向屋は三十万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび仏に成るべきよ
御一代記聞書
(意訳)
堺の日向屋は、三十万貫もっていたけれども、仏法を聞くことはなく死んだため、仏にはならなかったであろう。大和の了妙は粗末な着物一つ着れないほど貧しいが、弥陀の本願を喜んでいるので死ねば弥陀同体のさとりをひらけるだろう。
解説
蓮如上人の当時、大阪の堺に日向屋という大変な大金持ちがいました。
対して大和(奈良)の了妙は、大和国高市郡南八木村の金台寺(こんだいじ)の女性の僧侶で、極めて貧しい暮らしをしていました。
日向屋の三十万貫は現代の価値でどれくらいかを計算してみました。
戦国時代の1貫=12万円という説があったので、現在の価値で360億円程になりそうです。他にも200億円という人もいました。どちらにせよかなりの資産があったということでしょう。当時の堺は国内・国外貿易が盛んで非常に栄えた地域でした。
日向屋は、優雅な暮らしをして、生涯お金に困ることはありませんが、後生には一文ももっていけません。ただ一生の間だけの宝をもっているだけです。仏法を聞くことがなかったので、後生は仏になれないだけでなく、生涯つくってきた業に引かれて苦しむだろうと言われています。
死後に財宝を持ってはいけないと、御文章にも教えておられます。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つも相添う(あいそう)ことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ。
『御文章』(一帖目十一通)
(意味)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。
それに比べて、大和に住んでいた了妙は一枚の帷も持たない貧乏人だったが、よく他力信心を喜んでいたから、仏になるだろう、と蓮如上人が述べられています。
堺の日向屋
堺の日向屋については、どのような人だったのか、ほとんどわかりませんでした。
ただし、次のような話が伝わっています。
堺の日向屋は、非常に強欲で、出すことといったら懐から手を出すのも嫌い。後生とも知らず、未来とも知らず、仏法を聞くこともなく、浮世の栄耀栄華を極めて楽しんでいました。
しかしある時大病を患い、医師からも見放されるほどの病状となってしまいました。
とても死にたくはないので、召使いにこのように言いました。
「おれはどんどん病勢がつのり、無常の風に誘われて死ぬかもしれんから、おれを裏の金蔵に連れていき千両箱の上で寝かせろ。蔵の戸をピシャリと閉めて、無常の風が少しも入らぬように外で見張っていろ」
馬鹿な親父だと召使いは思いましたが、ハイと返事して、言われたとおり千両箱の上に寝かせました。
召使いは外へ出て、鍵をかけ、無常の風が入らないように見張りをしていました。翌日になって鍵を開け「旦那様、ご容態はいかがでしょうか?」と尋ねても返事がない。
変だと思って中へ入ると、日向屋はいつ死んだかもわからぬように死んでいた、という話がありました。
蔵に見張りをしていても逃れ難いのが無常の風であるという戒めとして、伝わっています。
(出典:布教資料全集)
次に了妙について説明します。
大和の了妙
「帷」は、かたびらではなく、「かたひら」と読むようです。着物の裏のついていない単衣(ひとえ)であって、片方しかないので「かたひら」ということのようです。このような単衣の着物一つ着ることができないほどの貧しい暮らしでした。
もともとは八木村でお金持ちだった酒造家・蔵元の酒屋孫左衛門に嫁いで贅沢な暮らしをしていました。しかし、火宅無常の世界からは逃れられず、はやくに夫を亡くし、跡取り息子もその嫁も失い、60歳を過ぎてから10歳ほどの孫を連れて生きなければならなくなりました。
当時の女性の仕事は糸繰り(織物)くらいしかなく、糸車を回して生計をたてましたが、苦しい生活を強いられたといいます。

蓮如上人との出会い
蓮如上人が訪れたことについては「金台寺縁起」に記されています。
ある夏の日に、蓮如上人が弟子を連れて大和(奈良)に向かわれました。
非常に暑い日で、長く歩いているとのどが渇いてたまらなくなり、水を一杯いただこうとふと立ち寄ったのが了妙の家でした。
当時の了妙は過去の裕福だった頃の暮らしを思い出し、明けても暮れても今の薄幸を嘆き、愚痴をいうばかりだったといいます。了妙は水ぐらいでしたらと欠けた茶碗に水を汲み、お渡ししたところ、蓮如上人は合掌していただかれ、弟子とともに飲み干しました。
すると
「この水が、水として喉を潤すことができるのも人間に生まれたからであって、餓鬼に生まれていたら、飲もうと思っても炎となって喉を焼くという。人間に生まれたことは大変幸せなことだ」
と弟子たちと大変お喜びになったといいます。
その様子をじっと見ていた了妙は、「自分は毎日同じ水を飲んでいるのに感謝したことがない。毎日愚痴を言って泣いている。たかが井戸水であそこまで喜べるのは、たんに喉が乾いているだけではないだろう。服装をみれば自分もお坊さんたちもそんなに変わりはないが、どうしてそこまで喜べる世界があるのか。」と、愚痴いっぱいの自分との違いから、強く引きつけられるものがあったといいます。
了妙が蓮如上人にそのことを尋ねたことを縁に、蓮如上人は有為転変の世の中と他力往生の理を丁寧に説明され、ご名号を授けたといいます。
(参考:大乗 : ブディストマガジン)
他にも次のような話が伝わっています。
糸をくりながら念仏する
蓮如上人が大和へ行くときはよく、了妙を訪ねました。
ある時、蓮如上人が了妙に「おまえはどのように暮らしているか」とお尋ねになりました。
了妙が「貧しい姿で、ただ毎日糸をくりながら、念仏を称えております。」と答えたところ、蓮如上人はこのように訂正されました。
「それは間違いだ。糸をくりながら念仏するのではない、念仏を称えながら糸をくるのだ。」
このご教導は、人生では常に仏法が先にあるべきことを教えられています。
『御一代記聞書』には、「仏法を主とし、世間を客人とせよ」とか「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし。」と聞法する時の心がけを教えていただきます。
何のために生まれてきたのか、あらためて考えさせられる蓮如上人と了妙のエピソードでした。
(参考:大乗 : ブディストマガジン)
編集後記
今回紹介した話では、大阪と縁のある登場人物、堺の日向屋を反面教師として紹介しました。
「財は一代の宝、法は末代の宝」と教えていただきます。
どれだけ名声を得ても、富を得ても死後もっていくことはできません。
一念の信心の宝を得るところまで、大阪会館で共に聞法させていただきましょう。