63歳 蓮如上人が山科本願寺建立を決意

今回は、蓮如上人が63歳(1477年)で山科本願寺建立を決意されたときのことを紹介します。

場所は大阪の出口御坊光善寺でした。

出口御坊についてはこちらの記事をお読みください。

目次

京都へ戻れなかった理由

吉崎御坊を退却されたあと、大阪の出口御坊を拠点に布教された蓮如上人でしたが、京都へ戻れない理由がありました。

吉崎御坊へ行かれる前に、蓮如上人は京都東山の大谷本願寺を再興されていました。

しかし本願寺の興隆を妬み、発展を危険視した比叡山の山法師たちが本願寺門徒を「无碍光衆(むげこうしゅう)」と誹謗し、襲撃し、大谷本願寺を破却しました。

これを寛正の法難といい、蓮如上人51歳の頃(1465年)の出来事です。

蓮如上人は親鸞聖人の御真影を抱え避難されましたが、執拗に攻めてくる比叡山の目をかいくぐりながら布教を続けられます。

滋賀の末寺を転々としながら、55歳の頃(1469年)に大津三井寺に、御影堂を建てられています。

このような経験があり、また吉崎御坊でも比叡山から攻撃を受けていたため、京都に戻ればまた比叡山の山法師から命を狙われ布教どころではなくなることは、誰の目からみても明らかだったのです。

また京都の半分以上の寺が日蓮宗であったため、日蓮宗からも攻撃を受ける危険もありました。

さらに浄土宗は、宮中と結びつき、盤石な後ろ盾を持っており、真宗仏光寺派も京都で勢力を伸ばしていました。

そのため蓮如上人が京都に戻る余地を見出すことは、非常に困難だったのです。

しかし出口(現:高槻市付近)は水害などにあい交通が止まりやすく、湿地であり衛生的にも悪かったため、土地柄的には最適ではなく、新しい土地を見つけなければなりませんでした。

光善寺を出給て京近くならせ給に、大雨しきりにて大水出で、出口村は水入ければ
蓮如上人御一期記

蓮如上人の思いとしても、京都は親鸞聖人のお生まれになった土地であり、ご自身の出生の地でもあるため、京都で本願寺を再建したいと想われていたことは想像にかたくないでしょう。

そして蓮如上人を慕う当時の親鸞学徒の思いとしても、京都で本願寺を再建したいという想いは同じでありました。

滋賀から金森の道西の訪問

出口御坊には、近畿全土から参詣者があり、その中に金森の道西(善従)もいました。

金森の道西について

道西は滋賀の親鸞学徒で、堅田の法住と並んで、滋賀では有名なお弟子です。

法住については、こちらの記事に書いています。

道西は御一代記聞書に善従として登場します。

善従申され候ふは、出づる息は入るをまたぬ浮世なり、もし履をぬがれぬまに死去候はば、いかが候ふべきと申され候ふ。

御一代記聞書

蓮如上人から一番最初に「御文」を受け取ったお弟子で、その御文は「筆始め御文」として今も残っています。

道西について詳しくはこちらの記事をお読みください。

道西は、1477年、蓮如上人の出口御坊善光寺へ訪れた際に、京都山科におすすめの土地があるので、御坊を建てることを提案しています。

山科本願寺建立の提案と蓮如上人の移動

道西の提案に対して、蓮如上人は最初「どこかに定住する気はない」と言われていましたが、道西の説明を受けると思うところがあり、急ぎ山科を見に行かれました。

そして翌年1478年には、まず仮小屋を建てられました。

蓮如上人は大阪から京都へ移動し、居住し、建立の指揮をとられ、山科本願寺の再建がはじまります。本願寺の土地は山科の住民、海老名五郎左衛門が寄進したと伝えられています。

海老名五郎左衛門は、元は仏光寺派でしたが蓮如上人へ土地を寄進。蓮如上人のご法座へも足を運ぶようになった人です。
蓮如上人の義母如円は海老名氏の家系であることから、深い因縁があったことがわかります。

文明九年玄律の比、金森の善從、出口の閑窓に謁して申しけるは、城州宇治の郡の東に貴坊を建らるべきよろしき在所ありと時々申されければ、先師の仰には、われ一處不住にして生涯を果すべしと思なりと[云々]。しかりといへども善從なを啓述ありつる旨は、昔は京都東山にさへ在しき、宇治の郡邊は道俗參入の便最あるかの由を再諮に及間だ、先師そのこゝろを得玉ひて急この處を歷覽あるべしとて同十年先師六十四歲初陽下旬第九日、河内の國茨田の郡出口の里をいでゝ上洛し在て、山城國宇治の郡小野といふ庄、山科の内野村の西中路に輦輿をたてられ、少時見廻玉ひて、しからば此に居住し時宜をも試べしとて、先少屋を建玉ひ、その年は江州近松の弊坊にて越年し、翌年六十五歲にして沽洗の比、連續して作事を企てたまふ。

蓮如上人遺德記

そして堺の信証院の建物を山科へ移したようです。

文明十一年正月廿九日、河内国茨田郡中振郷山本のうち出口村中の番といふところより上洛して、山城国宇治郡小野庄山科のうち野村西中路に住すべき分にて、しばらく当所に逗留して、 そのゝち和泉の堺に小坊のありけるをとりのぼせてつくりをき

帖外御文

境の信証院については、こちらの記事をご覧ください。

山科建立について、蓮如上人は後にこのように振り返っておられます。

そもそも当所は宇治郡山科郷小野庄のうち野村西中路といへるところなり。しかればこの在所にをいていかなる宿縁ありてか、不思議に文明第十の春のころよりかりそめながら居住し、すでに一宇を興行し、そのまゝ相続し、おなじきつぎの年文明十二歳庚子二月はじめのころ、御影堂かたのごとく柱立ばかりとこゝろざすところに、なにとなく仏法不思議の因縁によりけるか

帖外御文(文明十三年・1481年・蓮如上人67歳)

蓮如上人は山科との不思議なめぐり合わせをしみじみと感じておられます。

その後、1483年に山科本願寺が完成し、翌年には本願寺の状況をこのように書き残されています。

抑雍州宇治郡山科郷之内野村者、往古より無双の勝境なり。 されば山ふかく地しづかにして、更にわづらはしき事なく、里とをく道さかりて、かまびすしきなし。 このゆへに、一宇の坊舎を建立して、すでに当時は七年におよび侍べりき

帖外御文(文明十六年・1484・蓮如上人70歳)

命を狙われながら布教を続けられ、京都には戻れるような状況ではなかった蓮如上人が、様々な因縁があり、京都山科で本願寺を再建することができ、非常に満足されていることがわかります。

蓮如上人は京都へ拠点を移されたあとも京都だけでなく、出口御坊や堺のほうへも足繁く通われ、布教されていました。

編集後記

布教の拠点を大阪から京都山科へ移されたことは、非常に難しい判断だったと改めてわかりました。

今回山科本願寺の建立について省略して説明していますが、いくつもの不思議な因縁が重なり、完成されたあとに書かれた蓮如上人のご文章からは大きな喜びが伝わってきます。

念願の京都での本願寺再建を果たされたあとも京都にとどまらず、大阪にも頻繁に足を運び、親鸞聖人の教えを伝えられたことには感謝せずにおれません。

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