75歳 蓮如上人が山科本願寺の住職を譲り南殿へ隠居

今回の記事は、蓮如上人が山科本願寺の住職の座を譲ったあとについてです。

蓮如上人のご布教は、幾度も大阪にお越しになられています。

目次

空善記の記録

1489年(75歳)8月28日に、蓮如上人が住職の座を8男実如に譲り、山科本願寺の南殿で隠居されるときに、以下のように述懐されたと記録があります。

功なり名とげて退くは天の道とあり、さればはや代をのがれて心やすきなり、いよいよ仏法三昧までなり

空善記

「『功名を立てて名誉を得たら、与えられた地位にとどまっていないで引退するのが自然の道である(老子の言葉の引用)』という言葉もあるが、住職の座を譲り安心している。これでいよいよ仏法三昧の生活ができる」

南殿跡は京都の山科区に場所にあります。

大阪へ足繁く布教に訪れる

蓮如上人は、隠居したと言っても楽隠居ではなく、積極的に大阪各地へ布教に来られていました。

山科を中心として、一年に何回となく河内出口・摂津富田・和泉堺ないし近江堅田等を往来されている記録が残っています。

・延徳四年(1492年) 五月、 大雨にて候き。 にはかに御上洛あり度とて御上洛あり。 その五時ほどに出口殿つゝみきれ候。

・明応四年(1495年)十一月十九日、 富田殿より上様御上洛にて

・(1495年)十二月六日に富田殿へ御下向にて候間、

・明応五年(1496年)正月廿三日に富田殿より御上洛ありて言く、 当年よりいよいよ信心なき人には御あひあるまじき

・(1496年)二月十七日にやがて富田殿へ御下向ありて、

・(1496年)三月廿七日に堺殿より御上洛にて、 

・(1496年4月)十二日堺殿へ御下向あり。

・三河の国より、 あさいの後室、 御いとまごひにとてまいりて候に、 富田殿へ御下向のあしたの事なれば

・明応六年(1497 年)十月十四日に、 御寿像御免にて、 同十八日御うらがき大上様富田殿にてあそばされて、

 (1497年)又上様は七日のうちを富田殿にて三日御つとめありて(報恩講を三日間勤められた)

空善記

上記は蓮如上人が75歳以降の記録の一部で、大阪と山科を行き来されていたり、大阪に滞在されて報恩講を勤められた記録です。

堺殿、富田殿、出口殿というのは、蓮如上人が建立された御坊で、以下に記事がありますのでお読みください。

編集後記

今回ご紹介した内容は、蓮如上人が大阪に来られたり、大阪から京都山科や地方へ移動された記録の一部で、これだけ見ても山科本願寺でじっとしておられなかったことがわかります。

当時蓮如上人のご年齢で、移動手段も限られる中、天候などに左右されながらも、これだけ移動されていることだけでも驚きますが、他の地域を含めるとその活動量は想像できないほどです。

今でも大阪に浄土真宗が広まっているのは、蓮如上人のこのような不断のご布教があったなればこそと知らされます。

蓮如上人が伝えてくだされた親鸞聖人の教えを、これからも大阪会館で大切に聞かせていただきましょう。

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