石山本願寺は、いまだ推定地となっており、どこに位置したのかは正確にはわかっておらず、いろいろな説があります。
今回は、なぜいまもわからないのか、その理由について説明します。
石山本願寺の推定地
現在、石山本願寺の推定地は、大阪城公園内にあります。
石山本願寺の位置がわからない理由について、上記看板に説明があります。
※江戸時代以前は「大坂城」とし、明治維新後は「大阪城」と表記しています。
石山本願寺の位置がわからない理由
「石山本願寺推定地」の看板の説明は、このように書いてあります。
石山本願寺推定地 明応五年(一四九六)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(一五三二)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。
引用:大阪市教育委員会の看板
上記看板に書かれている本願寺の拠点の移転と、大坂城の築城について、詳しく書きたいと思います。
本願寺の移転
石山本願寺が織田信長との石山合戦に破れたあと、本拠地を移動せざるを得なくなり、以下のように移っていきました。
鷺ノ森本願寺(和歌山)
↓
貝塚本願寺(大阪和泉)
↓
天満本願寺(大阪天満)
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本願寺(京都堀川六条付近)
鷺ノ森本願寺
天正8年(1580年)3月、織田信長と石山合戦の和議に応じた顕如上人が、同年4月に和歌山にある鷺ノ森御坊に拠点を移し、鷺ノ森本願寺となりました。
そしてそこは3年間浄土真宗の中心地となったのです。
しかし、そこに織田信長軍の兵が攻めてきた(鷺森合戦)という話があります。
その背景には、天正10年(1582年)1月に雑賀で内紛が起こったことがあります。土橋氏と鈴木孫一らの争いで、顕如上人は両者の仲介に尽力をしましたが、成果はあがりませんでした。(『鷺森旧事記』)
天正10年(1582年)6月、織田信長は、この争いに乗じ、浄土真宗を根絶やしにしようと兵を向け、信孝(のぶのり:三男)に命じて本願寺の殲滅を言い渡しました。
多数の兵が鷺ノ森本願寺を囲み、顕如上人親子は、自害も覚悟していました。
ところが急に織田軍が一斉に退却しはじめます。阿弥陀仏のご加護か、浄土真宗の危機は去ったのです。:(出典:『真宗全書』(本願寺表裏問答))
このとき、備中で毛利と交戦中の羽柴秀吉を支援するよう命じられ光秀の大軍が大江山にさしかかるや、「敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり」と京都へ方向転換し、本能寺の変が起きたのでした。
信長が鷺ノ森本願寺を攻めたという西本願寺の史料を基に、絵本太閤記などの読本(小説)や明智軍記などの軍記物に取り上げられ、後世話題となりました。
貝塚本願寺
織田信長の亡き後、顕如上人は豊臣秀吉と和睦し、秀吉の指示に従い、天正11年(1583年)に船に乗って移動し、和泉の貝塚という地域に拠点を移しました。
天正5年(1577年)石山合戦の際に、一度織田軍によって貝塚道場は焦土と化してしまいましたが、その後、卜半氏が板屋道場を建て、顕如上人が移住する頃には復興し、2年間本願寺の拠点となります。
拠点の移転を命じた理由は、秀吉が紀州討伐を行うためといわれており、移転前に、貝塚へ「禁制」(戦争が起きても軍が寺内町で乱妨することを禁ずる命令)が発給され、秀吉は本願寺を保護していたことがわかります。
天満本願寺
豊臣秀吉から摂津中島(大阪天満)の土地を寄進されことにより、天正13年(1585年)8月に貝塚から移動し、天満へ本願寺の拠点が移されました。当時、この拠点は中島本願寺や天満本願寺などと呼ばれていました。
寺の広さは、大坂本願寺の寺内よりも広い、東西七町・南北五町だったといいます。
天満本願寺へ移動を命じられた理由には、秀吉が一向一揆の恐れがなくなったと判断した、一向一揆を警戒して目の届く所に本願寺を置いた、浄土真宗門徒の経済力・技術力を大阪の城下町建設に役立てるためとか、秀吉の好意で石山本願寺に近い天満に土地を提供した、など様々な説があります。
天正13年に秀吉によって架けられた橋が「天満橋」で、当時の親鸞学徒は天満橋を通って天満本願寺へ参詣したと見られています。天満橋は『フロイス日本史』1 豊臣秀吉篇 1 第4章 に 、(淀)川に架けられた 「非常に美しい木造の橋」のことだとされます。(参考:おおさかeこれくしょん)
余談になりますが、天正14年11月、後陽成天皇と正親町上皇は、顕如上人を准后(じゅんごう)に任じました(出典:『言経卿記』十三日条)。准后とは、有力な皇族なみに待遇するという称号のことです。ただし顕如上人はこれを辞退したと伝えられています。(出典:『法流故実条々秘録』)
京都への移転
そして天正19年(1591年)、秀吉より堀川六条(現東本願寺付近)に寺地を寄進され、そこに拠点を移転するように命じられた顕如上人は、天満から堀川六条に拠点を移転しました。(出典:『言経卿記』20日条)
移転理由はわかっていませんが、寄進された土地は、一遍や空也の旧跡地と言われています。
移転後の天正20年(1592年)11月20日、顕如上人はお亡くなりになりました。
以上が、石山本願寺を撤退した後の、本願寺の動向です。
次に大阪から本願寺が移転した後、石山本願寺の跡地がどうなったのか解説します。
大阪城(大坂城)の建築
石山本願寺から本願寺が撤退したあと、この土地に信長、秀吉、家康が、築城をしていきます。
信長は「大坂の石山は日本無双の名城と成すべき地なり」(引用:陰徳録)と述べるなど、石山本願寺跡に大坂城を築く予定でしたが本能寺の変が起き、急逝したため城を完成させることはできませんでした。
最初に大坂城を築いたのは豊臣秀吉になります。
豊臣秀吉の大坂城
豊臣秀吉は、後継者争いによる賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利したあと、戦後処理中に大坂城を築き始めたと言われています。そして完成した初代大坂城は、「三国無双の城」と讃えられる豪壮華麗な城だったそうです。
しかし豊臣秀吉の亡き後、大阪冬の陣が起こり、そのあとの大阪夏の陣で大坂城が陥落し、豊臣家の滅亡と共に大坂城も焼失しました。
大阪に住む人は現在あるお城を「太閤はんのお城」と言う人がありますが、現在のお城は豊臣家のお城ではありません。
徳川家の大坂城
元和5年(1619)7月に2代将軍徳川秀忠は大坂を幕府の直轄地とし、次の年から諸大名を動員して大坂城を築きなおしました。
豊臣家の大坂城のあった場所に、高い所では10メートルほど盛土をして、豊臣家の大坂城を完全に埋めました。
それは豊臣家をはるかに上回る徳川の力と権威を見せつける必要があったためでした。『高山公実録』などには、二代将軍秀忠と藤堂高虎が大坂城の石垣の高さや堀の規模を豊臣家の倍にしようと考えていたことが記されており、それが実現されたのです。
寛永5年(1628)には全く新しい徳川将軍の城が完成しました。
現在の大阪城
その後、大阪城は3度の落雷や明治維新での動乱などで天守閣を失いましたが、1931年(昭和6年)に再建され、徳川時代に再建された天守台石垣の上に豊臣時代のわずかな史料を基に天守閣を想像し、大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復興されました。現在では築90年以上たち、重要な文化財となっています。
つまり現在の天守閣は、豊臣時代・徳川時代に続く3代目のものなのです。
石山本願寺がわからない理由
石山本願寺がどこにあったのか、それは史料がないためわからないという理由もありますが、一番大きな理由は、上述のように、大坂城を建てる度に土地の改変などがあったため、遺跡の発掘ができないことにあると言われています。
編集後記
石山本願寺の遺跡は今後も見つけることは難しそうですが、石山本願寺から撤退したあとも顕如上人をはじめ、親鸞学徒の護法のご活躍があり、浄土真宗の教えは今日まで伝えられました。
石山本願寺の遺跡が見つかれば、もしかしたら国宝級の発見があるかもしれません。しかしたとえ遺跡が見つからなかったとしても、浄土真宗の一念の信心の宝は、大阪で脈々と伝え続けられています。
これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で、一念で救うと誓われる阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。