今回は、聖覚法印が大阪の文化に与えた影響や、阿弥陀仏の本願を伝える上でのご活躍について紹介します。
最初に大阪の文化と馴染み深い、落語の起源について解説します。
聖覚法印と落語
落語は、大阪や京都が発祥の地とされています。
大阪では、江戸時代に活躍した米沢彦八という人物が、道端に小さな舞台を作って、物語を面白おかしく語り、聴衆からお金をもらう「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)を興行しました。
一般的には、この「辻咄」が、落語の始まりと言われます。同時期に江戸落語を作った鹿野武左衛門も大阪出身なので、大阪から江戸に笑いが輸入されたと表現する人もいます。
しかしこれらの人たちの前に、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した、「落語の祖」と呼ばれる安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という岐阜出身の浄土宗の説教師がいました。
京都にある「誓願寺」の第55代法主となった僧侶で、笑い話の集大成『醒睡笑』を著しました。豊臣秀吉の話し相手をする御伽衆の1人だったともいわれています。
『醒睡笑』序文には、タイトルの由来が以下のように書かれています。
策伝某小僧の時より耳にふれておもしろくをかしかりつる事を、反故の端にとめ置きたり。(中略)こしかたしるせし筆の跡をみればおのづから睡を醒して笑う
引用:『醒睡笑』
意味:私が小僧のときから、耳に触れ面白く思った話を紙切れの端に書き留めてきた。(中略)これまで書いたことを読み返してみると、眠気が覚めるように笑える
「辻咄」は、多くこの『醒睡笑』の内容を話の種として話されたことから、安楽庵策伝という僧侶が落語の祖だとも言われるようになりました。
安楽庵策伝の話術のルーツは、浄土真宗とも大変深い関係のある、聖覚法印にあります。
なぜなら安楽庵策伝は、聖覚法印の「安居院流」の系譜を組む僧侶だからです。安居院流の説法は、浄土真宗の僧侶にも影響を与えており、節談説教などに繋がったと言います。落語はその節談説教の影響も受けていきました。
安居院流や聖覚法印について、以下で詳しく解説します。
聖覚法印と親鸞聖人
聖覚法印が、法然上人を親鸞聖人に紹介されたエピソードは有名で、とても重要な出来事です。
親鸞聖人が法然上人と会われたエピソードは、以下の記事をお読みください。
まず聖覚法印の出生について紹介します。
聖覚法印の出生
聖覚法印の祖父は、保元の乱のときは辣腕をふるい後白河天皇に勝利をもたらしたり、当代の大学者として名を馳せていた入道信西(藤原)通憲です。
そして父は、平安時代から鎌倉時代の初期に天台宗の僧侶の、澄憲(ちょうけん)です。
澄憲
澄憲は、平治の乱の際に信西が殺害さると信西の家族として栃木県あたりへ島流しに遭いましたが、後に帰京し、出家しました。
比叡山竹林院を本坊とする里坊の安居院(あぐいいん)に住み、天台宗で上位から二番目の位にあたる権大僧正に任命されました。
澄憲は信西ゆずりの賢さと、話のわかりやすさで、説法唱導の名人として知られ、源・平・藤・橘その他代表的諸氏の家系図である『尊卑分脈』には以下のように評価されています。
四海大唱導、一天名人也。此一流能説正統也。能説名才
引用:『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』
意味:天下の大説法師で右に出る者のがいないほど大名人である。澄憲の一流は、説法の正統派である。説法においては全国に名人と知られていた。
唱導とは、「演説」「説法」「説教」「法説」「法談」「講義」など様々に言われ、文字の読めない庶民にもわかりやすく、教えを説く方法のことです。
澄憲の説法は、優美で、感嘆落涙で、涙しないものはいなかったといいます。
鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史といわれる元亨釈書には、以下の記載があります。
一昇高座。四衆清耳(一たび高坐に昇れば、四衆耳を清す)
引用:元亨釈書
意味:一度説法に立てば、聴衆は心が洗われるように感動した
この他にも九条兼実の日記『玉葉』や橘成季が編纂した説話集『古今著聞集』などの様々な書物の中に登場し、褒められています。
その説法方法は、体系化され、言語化し、『安居院流』として弟子に継承されていきました。
父の澄憲以上に説法に長けていたと言われるのが、「濁世の富楼那」と言われた聖覚法印です。
聖覚法印の信頼
聖覚法印は、天台宗の僧侶でもあり、安居院に居住していました。朝廷から「法印」という僧位を与えられるほど、天台宗でも高い功績を残されています。
聖覚法印の出自について資料は少ないのですが、最初は天台宗の僧侶として、澄憲の『安居院流』を継承していましたが、39才のときには法然上人に帰依していたといわれています。
法然上人
法然上人からの信頼は非常に厚く、法然上人は以下のように話をされていました。
御往生の後は疑をたれの人にか決すべきと、上人にとひたてまつりけるに、聖覚法印わが心をしれりとの給へり」
引用:『法然上人行状繪図』
意味:「(法然上人が)ご往生されましたら、教えに疑問が生じた場合、どなたに聞いたらいいのでしょうか」と法然上人にお尋ねしたところ「聖覚法印が私の真意をよくわかっている」と答えられました。
吾カ後ニ、念佛往生ノ義スグニイハムズル人ハ聖覺と隆寛トナリト云々
引用:『明義進行集』
意味:私のあと、念仏往生の義を正しく(そのまま)話せる人は、聖覺と隆寛であると云々
このように、法然上人は、お弟子の中でも、聖覺法印が教えを優れて理解していると、非常に信頼されていました。
親鸞聖人
また親鸞聖人の行われた『信行両座の諍論』では、「信の座」に座られたことでも知られています。
信行両座の諍論については、以下の記事をご覧ください。
そして親鸞聖人も聖覚法印を大変尊敬され、様々なご著書の中で聖覚法印の書かれた『唯信鈔』を拝読するよう勧められ、また唯信鈔の内容をもとに、阿弥陀仏の本願を解説されています。
そのようは、唯信鈔にくわしくそうろう。よくよく、御覧そうろうべし
引用:『親鸞聖人御消息集』
さきにくだし.まいらせさふらひし唯信鈔・自力他力などのふみにて.御覧さふらふべし
引用:『末灯鈔』
本願のようは、『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」とは
引用:尊号真像銘文
如来の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくはしくあらはれたり
引用:『唯信鈔文意』
親鸞聖人は、晩年の85歳のとき、聖覚法印の唯信鈔を解説書である『唯信鈔文意』を書き表され、生涯、聖覚法印を厚く信頼し、教えをあきらかにされました。
世間
聖覚法印が法然上人に帰依したことで、多くの人へ阿弥陀仏の本願が伝わるきっかけとなりました。聖覚法印の説法は次のように評されています。
天下の大導師・名人
引用:『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』
意味:天下の大導師であり、説法の名人である
説法如富楼那、万人落涙
引用:『三長記』
意味:富楼那のような説法で、訪れた多くの人々が感動し涙した。
このように有名であったため、聖覚法印は後鳥羽上皇から質問を受けたことがあります。
後鳥羽院、聖覚法印参上したりけるに、「近ごろ専修の輩、一念・多念とて、たて分けて争ふなるは、いづれか正とすべき」と御尋ねありければ
引用:『古今著聞集』
意味:後鳥羽上皇は「最近念仏を信じている者たちが、一念多念と分けて争っているが、どちらが正しいのか」と聖覚法印に尋ねました。
聖覚法印がお亡くなりになったときに、公家の藤原定家はこのように嘆きました。
濁世富樓那遂爲遷化之期歟、實是道之滅亡歟、悲而有餘
引用:『名月記』
意味:濁世の富楼那と言われた聖覚法印が、ついに往生された。真実の教えが滅亡するかもしれない。悲しくて仕方がない。
他にも様々な資料に登場されます。
聖覚法印が法然上人のもとで教えを正確に理解し、阿弥陀仏の本願をわかりやすく全国に弘めた功績は、非常に大きいのです。
編集後記
聖覚法印の説法は、今日の大阪の文化、特に落語に影響を与えていると言われます。
しかしそれ以上に、天台宗の僧侶でありながら、法然上人のお弟子となり、阿弥陀仏の本願を多くの人に、わかりやすく伝えられた功績は、非常に大きいものでした。
教えを深く理解するとともに、伝え方を研鑽することも大事だということがよくわかります。
親鸞聖人は聖覚法印の『唯信鈔』をもとに、阿弥陀仏の本願について明らかにしてくださっています。
浄土真宗親鸞会大阪会館で、これからも阿弥陀仏の本願を聞き学ばせていただきましょう。