蓮如上人と聖徳太子

今回は、蓮如上人と聖徳太子の関係についてご紹介します。

親鸞聖人と異なり、蓮如上人が聖徳太子について書かれたものは全くといっていいほどありません

また蓮如上人が直接門徒に下付される絵や名号には裏書(説明書きや署名)が書かれているのですが、蓮如上人の裏書がある聖徳太子影像も未だ見つかっていません。

なぜでしょうか。
その理由に迫ってみたいと思います。

親鸞聖人と聖徳太子の関係については、以下の記事をお読みください。

目次

蓮如上人に対する真慧の批判

蓮如上人が親鸞聖人の教えと異なる木像本尊や絵像本尊を焼却されたことは有名ですが、聖徳太子の像や絵も焼却されたようです。

焼却した事実は全国に伝わり衝撃を与えていたようで、高田派の真慧は、蓮如上人に対して厳しい批判をしています。

最初に蓮如上人と真慧の関係を簡単に説明します。

高田派については、以下の記事もご覧ください。

高田専修寺の真慧

真慧(1434〜1512)は、高田専修寺の第10世(1464〜)で、蓮如上人と同時期に活躍した人であり、蓮如上人とは19歳ほど歳が離れています。

高田派の中興の祖といわれ、加賀国・越前国・近江国・美濃国・伊勢国など北陸から中部にかけての布教に力をいれていました。

本願寺の法主が7代存如上人のときから、蓮如上人とは交流があり、とても親しかったと考えられています。

本願寺大谷に在し時、真慧上人と蓮如上人と等閑なし、真慧御在京の時は、大谷より請待にて入御ましますこと数月也

引用:『代々上人聞書』

意味:大谷本願寺に留まっていたとき、真慧上人と蓮如上人は常に親しくしていました。真慧が京都に滞在するときは、大谷本願寺に客として招かれ、数ヶ月宿泊していました。

また、蓮如上人が法主となられる前の本願寺はとても貧しく、高田派専修寺から物質的な援助を受けており、援助をしていた真慧が度々本願寺を訪れては、幼い長男の順如を可愛がっていました。

真慧との不和

ところが、時期は不明ですが、後に二人の関係には不和が生じたようで、その様子が以下のように伝えられています。

真慧上人蓮如と無隔意、其の時御両家御定により、高田の門徒を本願寺へ不可取、又本願寺の門徒高田へも不可取、互に御約束あり

引用:『高田上人代々聞書』

意味:真慧上人と蓮如上人は隔てた心はなく、両派の規定で、高田派の門徒を本願寺派へ取り入れてはいけない。また本願寺派の門徒を高田派へ取り入れてはいけない、という約束がありました。

蓮如上人と真慧には、お互いの門徒を取り合わない、約束があったにもかかわらず、蓮如上人の布教によって、高田派末寺である和田勝鬘寺、野寺本証寺が本願寺派になったことにより、仲違いしたと伝わっています。

さては定し事を韋変なりとて、其れより法印と蓮如と御中違ひ給ふ、又其の後加賀の國をも蓮如の取り給ひ

引用:『高田上人代々聞書』

意味:それにしても約束と異なるので、これより真慧と蓮如は仲違いとなりました。またその後、加賀国の高田派の門徒も蓮如上人のもとへ宗旨替えしました。

上記から、蓮如上人のもとへ高田派から多くの門徒が宗旨替えしたことがわかり、真慧の苦々しく思う気持ちが伝わってきます。

また仲違いしていたことがはっきりと分かる事案がありました。真慧が高田派専修寺を継いだ翌年の1465年、大谷本願寺が比叡山の衆徒によって焼き討ちにあった際に、真慧はいち早く比叡山へ登山し、高田派は、本願寺の所謂無碍光衆の一味でないことを弁明しました。

比叡山でそのまま7日間浄土真宗について講義をしたのち、叡山衆徒からの難を逃れましたが、この時高田専修寺は、延暦寺東塔の末寺となりました。

さらに蓮如上人が吉崎へ進出した翌年の1472年(真慧39歳)、明確に名指しはしていませんが、真慧は蓮如上人への批判書と言われる『顕正流義鈔』を記し、蓮如上人と対決姿勢を見せます。

『顕正流義鈔』には次のことが書かれていました。

聖徳太子の像を燃やすことへの批判

『顕正流義鈔』には以下の批判の記載があります。

実際の批判の論点は3つありますが、今回は聖徳太子と関係のある木像絵像を焼却した点についてのみ紹介します。

(中略)弥陀皇太子の絵像木像をすて、あるひは代々相承の師をそしらせ、在家のあま入道の後生を損破するものこれあり、あに非道、計道、非因、計因、外道、付仏法の大外道にあらすや、

引用:『顕正流義鈔』

意味:阿弥陀如来や聖徳太子の絵像・木像は用いるべからず、というものはこれまでの善知識方をそしり、在家の人々を惑わす外道である。

なんそくちには他力の行者といふて、弥陀の本尊をのけ、かたちをは仏法者となし て、弘通の恩をしらすして、皇太子の形像をすつるや

引用:『顕正流義鈔』

意味:どうして口では他力の行者といいながら、阿弥陀仏の絵像木像本尊を捨て、姿かたちは仏法者と言いながら、仏法を弘められた御恩を知らず聖徳太子の木像絵像を捨てるということができるのだろうか。

絵像木像をすつることは五逆の罪人なり

引用:『顕正流義鈔』

意味:絵像木像を捨てることは五逆罪である。

これらの言葉は、蓮如上人の以下のご教導に対する批判だと考えられています。

他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり  

引用:『御一代記聞書』

意味:真実の弥陀の救いを知らない人たちは、名号よりも絵像(絵に描いた阿弥陀仏)がよい、絵像よりも木像本尊が有り難く拝めるからよいと言っている。 だが親鸞聖人は、木像より絵像、絵像よりも名号が浄土真宗の正しい御本尊であると教えられている

このお言葉は、親鸞聖人の教えでは名号が正しい御本尊であることを、他流と比較して、わかりやすく教えられています

あまた御流にそむき候ふ本尊以下、御風呂のたびごとに焼かせられ候ふ。

引用:『御一代記聞書』

意味:親鸞聖人の御名号本尊の教えに違反する多くの本尊を焼かれたのである

蓮如上人は常に御名号本尊が正しい親鸞聖人の教えであることを、わかりやすく明らかにして、考え抜かれて行動されていました。

つまり蓮如上人が、木像本尊、絵像本尊を焼かれた真意は、徹底して浄土真宗の御本尊を明らかにされ、間違いを正すためでありました。

親鸞聖人の教えがよくわかっていれば、蓮如上人の真意はよくわかるはずです。

世間の蓮如上人のお言葉の解説でもこのように評価されています。

蓮如は、親鸞によって示され、覚如が継承、流布させてきた籠文字十字名号をこそ掲げることによって、聖人一流の法義を闡明にし、教化を推進、本願寺教団の興隆を期したものといえよう。

引用『真宗重宝聚英』一巻

蓮如上人が本尊を焼却されたことは、親鸞聖人のみ教えをどうしたらたくさんの方々に手渡すことができるかということを、慎重に熟慮された結果であります。

引用:『龍谷教学』(26)

名号が正しい御本尊であるという根拠については、こちらの記事もお読みください。

真慧が蓮如上人を厳しく批判した理由は、、親鸞聖人の名号本尊の教えに対する理解の違いというだけでなく、蓮如上人のもとに高田派からたくさんの門徒が流れていたため、その憎悪もあると言われています。

(『顕正流義鈔』で)少し不当に蓮如の太子破棄を宣伝した意図は、対立を深めていた両門流の憎悪感によって増幅されていたものにほかならない。蓮如が御文などで太子に全くふれていないことと、蓮如に太子に対しての関心が全くなかったこととすることには、懸隔が有ろう。

蓮如は弥陀一仏への帰依を強調することによって、相対的に他の先人(聖徳太子など)を矮小化した

引用:『国文学解釈と鑑賞』(63/10/809)「親鸞・蓮如の太子観」

蓮如上人が御文章などで、聖徳太子についてほとんど書かれていないことは、人々が誤って聖徳太子を本尊にしないように、徹底して親鸞聖人の教えを明らかにするためだったと考えられます。

これは親鸞聖人がそれまで寺院などで本尊としていた弥陀三尊の絵画などを、すべて捨て去り、ただ名号を御本尊となされたことと重なります。

聖徳太子を尊敬されていた蓮如上人

一方、蓮如上人が聖徳太子のことを尊敬されていたことについて資料が全くないわけではなく、10男実悟上人の記録などに見受けられます。

蓮如上人の御時、實如上人へ常に御物語候とて、實如上人常に御物語を度々. 承候つるは、太子の御命日に太子講私記あそばされ度候由、御物語候つると被仰由御物語候き。

引用:『山科御坊事并其時代事』

意味:蓮如上人は、聖徳太子の命日である22日に「太子講私記」を拝読し、5男の実如上人などへ聖徳太子についての物語を聞かせました。

山科御坊事并其時代事は、天正3年(1575年)6月、実悟上人84歳の著述で、顕如上人の時代のことを証如と書かれていたり、記憶違い等も考えられるため、他の資料とも重ねて内容を検討する必要があります

よって参考程度になりますが、蓮如上人は5男実如上人が子供の頃、聖徳太子の命日に『太子講私記』を読まれていたと聞いたことがあると記録されています。

また正像末和讃(皇太子聖徳奉讃)など蓮如上人が自筆書写されているところからも、聖徳太子を蔑ろにするといったことはなかったでしょう。

また御文章4帖目第5通には、このようにあります。

当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや。(中略)これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。

引用:御文章4帖目第15通

往古よりいかなる約束のありけるにや。」も「往昔の宿縁あさからざる因縁なり」というお言葉は、蓮如上人は、大阪の地が古い古い昔から何かの因縁があった地であろうとしみじみと感じられて仰っているものです。

ではどのような因縁を感じられていたのか、と考えた時に、聖徳太子との因縁を思っておられたのではないかとよく味わわれています。

「和国の教主」である聖徳太子が、最初に四天王寺を建立されたのは摂津玉造だと言われ、ちょうどJR森ノ宮駅や、聖徳太子の父親である用明天皇が祀られている鵲森ノ宮がある場所にあったと言われています。

そして石山本願寺の正確な位置はわかっていないのですが、石山本願寺の建立地は、聖徳太子と深い因縁があった土地の近くに建立されたことを蓮如上人が知りつつ「往昔の宿縁あさからざる因縁」と仰っているのだろう、と味われてきました。

石山本願寺の推定地については、こちらの記事をお読みください。

蓮如上人が聖徳太子のことを書かれている明確な資料はほとんどありませんが、伝承資料などはいくつもあります。先輩の親鸞学徒は、蓮如上人も大変聖徳太子を尊敬されていた方として認識していたのは、様々な資料からわかるのであります。

編集後記

蓮如上人の直筆として、聖徳太子について書かれているものを探してみたのですが、全く見つからなかっただけでなく、聖徳太子の絵や像も焼却していたというのは驚きました。

蓮如上人が木像本尊や絵像本尊を焼却した、と初めて聞いたときも大変驚きましたが、その真意を知った時、そこまでして親鸞聖人の名号本尊の教えを明確にしてくださったことに感謝するとともに、またそれほど間違いやすいことなのかと改めて知らされました。

このように焼却をしていたことを理由の1つにあげ(「或焼失仏像経巻」(引用:本願寺破却の牒状))、天台宗の衆徒が大谷本願寺を焼き討ちまでしていることから、蓮如上人は簡単な思いつきでなされたことではないということがわかります。

蓮如上人が様々な非難を顧みず、命をかけて明らかにされた親鸞聖人の教えを、大阪会館でこれからも聞かせていただきましょう。

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