今回の記事では、大阪を南北に縦断するメインストリートである「御堂筋」の由来を紹介します。
毎年さまざまなイベントが行われ、歴史的にも大阪の政治や経済と結びつきが強い、最も有名な道路でしょう。
歌詞にもよく出てきますね。
小ぬか雨降る 御堂筋こころ変りな 夜の雨
出典:雨の御堂筋(欧陽菲菲)
通い慣れた道が いつもより長く感じるこの空気
出典:大阪LOVER(DREAMS COME TRUE)
御堂筋はこんな日も 一車線しか動かない
また大阪には3つしかない「日本の道100選」にも選ばれています。
豆知識:日本の道100選には、以下の3つが選ばれています。
・御堂筋(大阪府大阪市) −昭和62年度選定
・フェニックス通り(大阪府堺市)− 昭和61年度選定
・寺内町(大阪府富田林市) – 昭和61年度選定
日本の道100選について詳しく知りたい方はコチラをお読みください。
大阪で親しまれている御堂筋ですが、浄土真宗と深い関わりのある通りでもあります。
御堂筋の由来
御堂筋の由来は、御堂筋沿いにある「北御堂」と「南御堂」に由来して名付けられました。
北御堂とは、本願寺津村別院(浄土真宗本願寺派、西本願寺の別院)のこと。
南御堂は、真宗大谷派難波別院(東本願寺の別院)のことです。
2つの寺は、御堂筋沿いに並んでいて、歩いてでもいけます。
御堂筋の初見資料
御堂筋がはじめて確認できる資料は、1615(元和元)年の「大坂濫妨人落人改之帳(おおさからんぼうにんおちうどあらためのちょう)」です。
豊臣家と徳川家で争われた「大坂夏の陣」の徳島藩の記録で、落人狩りなどについて書かれている資料です。
落人をとらえた場所として「大坂御堂筋」と書かれています。
誰が御堂筋と名付けたの?
誰が御堂筋と名付けたのかは記録がなく、不明です。
寺は「北の御堂さん」「南の御堂さん」と呼ばれ、御堂筋は多くの参詣者の御堂さんへの参道としていたことから、自然発生的に「御堂筋」と呼ばれるようになったのだろうと言われています。
大坂の多くの親鸞学徒が、御堂筋を通って聞法していたことがわかります。
御堂筋は大坂商人(船場商人)の憧れ
昔から大坂商人には浄土真宗の門徒が多かったのですが、大坂商人はこの御堂筋沿いで商売をすることを、一種のステータスと考えており、憧れにしていました。
「御堂さんの屋根の見える所で、鐘の聞こえる所で商売するのが夢である」
「御堂さんの屋根の見える所で、鐘の聞こえる所で暖簾(のれん)を張るのが夢や」
などと言われていたといいます。
そのため滋賀の有名な近江商人も、大坂にとどまって商売をするようになりました。
代表的な近江商人である伊藤忠兵衛氏を紹介しましょう。
後の総合商社伊藤忠商事や丸紅を興した人です。
初代伊藤忠兵衛氏
伊藤忠兵衛氏は、非常に熱心な浄土真宗の門徒であり、大坂や九州などの旅先で積極的に「講」に参加していたといいます。
そして商売に対しては、次のような信念をもっていました。
商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの
引用:伊藤忠商事
「三方よし」の心がけで商売をされていたことがわかります。
朝晩のお勤めを怠らず、毎日親鸞聖人の教えを求める人でした。
全店員に親鸞の教えを説いた『正信偈』一冊と数珠を持たせ、朝な夕なに店内の仏壇に向かって、店員たちと一緒に念仏をあげていたらしい。
引用:『宗教都市と前衛都市』
そして二代目の息子に対しては
たとえすべての事業・財産を失うことがあっても、他力安心の信心を失ってはならない
と遺言されています。
大阪で伊藤忠商事を立ち上げ、日本の経済を牽引した人の心には、常に仏法がありました。
私たち親鸞学徒も見習うべきことが多いように思いました。
編集後記
昔の大阪の親鸞学徒が、御堂筋を通って聞法していたことがわかり、御堂筋を通るたびに思いを馳せるようになりました。
現在の大阪の親鸞学徒は、地下鉄谷町線やJR東西線、都島通などを参道とし、浄土真宗親鸞会大阪会館へ参詣しています。
親鸞学徒の先輩たちに負けないよう、これからも大阪会館で聞法に励みましょう。