摂津国の萬福寺代9世「法実」

今回は大坂で蓮如上人のお弟子となった、摂津国の萬福寺代9世「法実」について紹介します。

目次

蓮如上人の吉崎に赴かれる前

蓮如上人は、大谷本願寺が比叡山の衆徒による焼き討ちにあったあと京都では布教できず、京都以外の地域で布教をされていました。

命を狙われながらの布教でしたが、歩みを止めることなく、多くの人々に引き続き阿弥陀仏の本願を伝え続けられました。

最初は比叡山衆徒から滋賀に逃れたため、滋賀での布教をされていました。

しかしずっと滋賀に留まっていたわけではなく、1471年(文明3年)に布教の拠点を福井県の吉崎へ移されるまでに、大阪・兵庫・奈良や愛知へも訪れ、阿弥陀仏の本願を伝えておられます。

淀川流域にある萬福寺の法実は、蓮如上人が吉崎へ行かれる前に、大坂で蓮如上人のお弟子となった親鸞学徒です。

「日本血脉相承真影」への裏書き

法実がどのようなお弟子だったのか、あまり記録がありませんが、元々は、淀川流域にあった萬福寺の住職で、佛光寺派の僧侶でした。

1463年(寛正4年)に蓮如上人が「日本血脈相承真影」へ直筆の裏書きを記されていることから佛光寺派だったことがわかります。

大谷本願寺 釈蓮如(花押)

寛正四年九月九日

日本血脈相承真影

         願主釈法実

日本血脈相承真影への蓮如上人の裏書き

「血脈相承」とは、師が弟子へと法脈を伝えることをいいます。真影は肖像画のことで、佛光寺派の寺では、自分へ正しく教えが伝わっていることを示すために、代々の住職の肖像画を記した連座像を用いました。

法実が住持した萬福寺の連座像には、法然上人、親鸞聖人と続き、法実の代にまで連なる20人の肖像画が描かれています。

蓮如上人が萬福寺の連座像へ直筆の裏書きしたことで、法実が蓮如上人へ帰依したことを示しました。佛光寺派の連座像なので蓮如上人としては好まれないことではありましたが、法実の切なる願いに応じたものではないかとも言われています。

1481年(文明13)の経豪の帰依による佛光寺派門徒の転派は衝撃的ですが、吉崎に行かれる前から、蓮如上人の大坂での布教は着実に実を結んでいたことがわかります。

経豪については以下の記事をお読みください。

法実のいた淀川流域で佛光寺派から転派した親鸞学徒は、後に中嶋衆と言われるようになり、さらに聞法に力を入れていきます。

中嶋衆

地域名を冠にして、親鸞学徒の集まりに名前がついていました。

淀川流域の親鸞学徒は中嶋衆と呼ばれ、海老江(現在の福島区海老江)、野里(西淀川区野里)、三番(東淀川区豊里)、大和田(西淀川区大和田)、幣嶋(御幣島)などで、聞法道場をかまえ、阿弥陀仏の本願を聞き学びました。

阿弥陀仏の本願を聞き学んだ中嶋衆は石山合戦でも活躍し、命をかけて真実の教えを守り抜いたことが記録に残っています。

編集後記

蓮如上人は、吉崎に赴かれる前から大阪に心をかけておられ、一人一人に仏法を着実に伝えていかれました。

蓮如上人から聞かせていただいた親鸞聖人の教えに感動した親鸞学徒の先輩たちは、沢山の聞法会場を用意し、日々阿弥陀仏の本願を聞き学びました。

浄土真宗親鸞会大阪会館でも、これからも阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。

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