久宝寺の法性の質問と聞法の心がけ

今回は、蓮如上人の御一代聞書にも登場する、久宝寺の法性について紹介します。

目次

法性について

久宝寺の法性は、法円や法光親子、宗玄や浄賢とともに、蓮如上人のお弟子であり、当時久宝寺にいた真摯な親鸞学徒として名前がよく挙がる方です。

法円や法光、慈眼寺については以下のそれぞれの記事をお読みください。

しかし久宝寺の法性についての文献はほとんどなく、後に法性は慈願寺の住職となったようですが、どのような人なのかはほとんどわかりませんでした。

今回は法性が登場する御一代記聞書を紹介します。

珍らしきことを聞きたく、知りたくなる者への注意喚起

法性が登場している箇所は以下の通りです。

蓮如上人へ久宝寺の法性申さ​れ候ふは、「一念に後生御たすけ候へ​と弥陀を​たのみ​たてまつり候ふ​ばかり​にて往生一定と存じ候ふ。かやうに​て御入り候ふ​か」​と申さ​れ候へ​ば、ある人わき​より、「それ​は​いつ​も​の​こと​にて候ふ。別の​こと、不審なる​こと​など申さ​れ候は​で」​と申さ​れ候へ​ば、蓮如上人仰せ​られ候ふ。それ​ぞ​とよ、わろき​と​は。めづらしき​こと​を聞き​たく​おもひ​しり​たく思ふ​なり。信の​うへ​にて​は​いくたび​も心中の​おもむき、かやうに申さ​る​べき​こと​なる​よし仰せ​られ候ふ。

引用:御一代記聞書

意訳:蓮如上人へ、久宝寺の法性というものが、「後生御たすけ候へ​と弥陀を​たのみ​たてまつる一念で、往生一定の身になると存じておりますが、これでよろしゅう御座いましょうか」とお窺いしたところ、或る人が側から「そのようなことはいつも聞いていることである。もっと変わったことについて、わからないことをお尋ねされてはどうか」と言ったとき、蓮如上人は仰せられました。「いつも私が悪いことだと叱るのは、それである。珍しいことを聞きたいと思い、ことかわったことを聞きたいと思い、知りたいと思うのが悪い心がけである。信を獲た人は、何度も心中の趣を法性のように尋ねるのである。」

私たちは何度も聞法していると、珍しい話や、違った話が聞きたくなりますが、その心がけの間違いを蓮如上人は正されました。

蓮如上人はまた、次のようにも教えられました。

一つことを聞きて、いつも珍らしく初めたるように信の上にはあるべきなり。ただ珍らしきことを聞きたく思うなり。一つことを幾度聴聞申すとも、珍らしく、はじめたるようにあるべきなり
引用: 御一代記聞書

意訳:信を獲た人は、同じ話を、いつも初めて聞いたように聞けるのである。人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、何度、同じことを聴聞しても、初事と聞かなければならない

釈迦一代の教えは、「南無阿弥陀仏」の大功徳一つを説かれたものです。それは限りなき無上甚深の功徳だから、百千万劫かけても説き尽くすことはできません。

蓮如上人が「無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」(御文章)と仰られているとおり、名号六字は、どれだけ説いても大海の一滴にもならない、無尽の法蔵です。

後生の一大事の解決は、弥陀からこの名号を丸貰いした一念で大満足し、人間に生まれた目的は、平生の一念に完成するのである。

しかし、阿弥陀仏より賜った無限の功徳は、何百年聞いても、聞き終わることもなければ、聞き飽きることもありません。無尽蔵の教えを頂くから、何度聴聞を重ねても、皆、初事になるのです。

この底無しの宝を頂いていなければ、仏法が底無しの教法だとは知る由もないでしょう。だから、氷山の一角も分かっていないのに、「もう分かった」と早合点したり、「またあの話か」と不足を言って、珍しい話を求めてしまうのです。

中には「私は救われたから、もう聞く必要は無い」と言う人さえありますが、無尽の教えを頂いていない告白でしょうその誤りを、蓮如上人は警告されているのです

違った話を聞くのではありません。同じ話を初事と聞け、と蓮如上人は慈誨されています。真剣に聞法すると、幾たびも聞いた同じ話が、「よく知らされた」「そういうことであったのか」と驚くことがあります。話が変わったのではありません。聞く人の信仰が進んだから、同じ話が、初めて聞いたように感じられるのです。

それはちょうど、電車が走ると、外の風景が変わっていくようなものです。スピードが増すほど、景色の変化も加速します。止まっていると、景色は変わらない。
信仰が進むほど、同じ話が初事と聞けるから、そういう真剣な聞き方を蓮如上人は勧めておられるのです。

どれだけ聞いても飽きることのない、無尽の法蔵・南無阿弥陀仏を頂いて、信心決定するまで、真剣に聞き学びましょう

編集後記

他にも、蓮如上人は仏教を聞く心構えについて、次のように教えられています。

蓮如上人、
「おどろかす甲斐こそなけれ村雀、耳なれぬれば鳴子にぞのる」、
この歌を御引きありて、おりおり仰せられ候、
「ただ人は皆耳馴れ雀なり」と仰せられしと云々

引用:御一代記聞書

馴れほどこわいものはないということです。

鳴子は雀を驚かすための、防鳥用の農具です。

雀たちも初めは鳴子が鳴ると驚いて、逃げます。しかし何回も鳴子が鳴っていると、慣れてきます。
大丈夫だなと。鳴子は、案山子も同じです。

「おりおり仰せられ候」とは、ことあるごとにおっしゃっていたということです。

私たちは仏教のこと、後生の一大事について、初めて聞いたときは驚きましたが、何度も聞いているとだんだんといつものことだと、軽く聞き流してしまったり、新しいことを聞きたくなります。

慢心を戒め、このような心を反省しながら、これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で、真剣に聞かせていただきましょう。

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