浄土真宗親鸞会 結成60周年 弥陀の本願 開顕の軌跡 大阪の法輪

今回は、顕真 平成31年2月号の内容を紹介します。

大阪支部の初期のことがよくわかります。

目次

昭和53年 大阪の法輪はいかに拡大したか 仏縁深き法友が集い、高森先生を継続してご招待

大阪は、蓮如上人が建立なされた石山本願寺の寺内町として発展した都市である。戦国時代、あの千軍万馬の織田信長さえも攻め切れなかった難攻不落の法城。江戸時代の学者・頼山陽は、「豈図らんや右府(信長)千軍の力、抜き難し南無六字の城」と称賛している。

なぜ難攻不落だったのか、こちらの記事もお読みください。

蓮如上人ゆかりの大阪で、高森先生ご法話が初めて開かれたのは、昭和53年であった。弥陀の本願は「聞く一つ」と教えられる。今日、二千畳での聴聞はありがたいことに、会場準備はほとんど必要ないが、大阪に真実の法を灯した吉川Yさん・Fさん夫妻は、聞法会場の準備に幾多の困難を乗り越えねばならなかった。吉川Yさんに聞いた。

吉川さんの話

愛知県豊橋市で高森先生にお会いし、仏縁を結ばせていただいた私が、大阪へ行ったのは、昭和47年です。大学を卒業して、愛知県安城市で就職しましたが、その仕事が肌に合わなくて、大阪の私立高校で、工業と理科を教えることになり、引っ越しました。

大阪の学徒は当時、加藤Mさん、加藤Tさん、まだ学生だった高森恭子講師など、ごくわずか。富山まで参詣する人は、五指に満たなかった。

大阪の親鸞学徒は、京都の学徒と一緒に行動していてね。京都の講師の法話を聞くために、電車で片道3時間かけて往復したものです。

誰も参詣しなかった会場

京都初の高森先生ご法話が、昭和47年4月にありました。この時も、京都まで何度も通って、ポスターを貼ったり、チラシを配ったりしました。それから毎年、先生を京都へご招待することになり、盛り上がっていったのです。

京都には、福井大学で仏縁を結んだ妻が教師として着任していて、聞法を通じて知り合い、結婚しました。その後も私たちは、京都の支部に所属していました。

けれども大阪は、人口も経済規模も京都より大きい。蓮如上人ゆかりのこの地に何とか伝えたいと思っていた時、大阪に講師が派遣されることになりました。

早速、講師と協力して、岸和田、茨木、寝屋川、吹田などで、講演会を開きました。でも、初めは、厳しかったですね。妻と準備万端整えて待っていても、一人も来られないことが、一度や二度ではありませんでした。それでも少しずつ、仏縁ある人が現れ、いつかは、高森先生を大阪にご招待したいと思っていたのです。

若い学徒が後押しに

その頃、福井大学で仏縁を結んだ谷さん(循環器科医)が、「関西の若者に真実を伝えたい」と、大阪大学大学院へ進んだのです。その後、故・細川了豊さん(講師部)、谷Yさん、故・中野さん(富山県内の総合病院初代院長)、駒井さん(整形外科医)、嶋津康文講師、山形さん(一級建築士)など、仏縁深い学生が大阪に陸続と現れました。

高森先生をご招待したいという夢は、大きく前進しました。私たちは、法友とともに、大阪ご法話の準備に入りました。加藤さん、谷医師など10人ほどの集まりでした。

ご法話を開いても、一回きりの打ち上げ花火で終わったらあかん。若き学徒が増えつつあったとはいえ、大阪全体で、20人ほどの時期です。毎年、ご法話を続けられるシステムを作らねばならないと考えました。

会計は、妻が担当していました。事務的には大変だったようですが、このシステムが学生、青年、一般の学徒の連携を強めてよかったと思います。

車内ポスターで大宣伝

高森先生ご法話は、大阪ではまだ開催されていませんでしたが、京都での経験が役立ちました。会場探しと宣伝がとても大変だと分かっていましたから。

昭和53年9月9日、10日の2日間、会場として、大阪のど真ん中のビジネス街である中之島の、国際貿易センターを借りることができました。長方形の大ホールでしたが、大きすぎたので、7割くらいで仕切って、その前方だけを借りることにしたのです。

宣伝は、本会のポスターやチラシのなかった時代、言葉やデザインは、自分たちで考えました。よりよいものにしたいと、広告会社にも何度も足を運んで、専門家の意見も参考にしたんですよ。この時は、比叡山をバックに、「世界の光 親鸞聖人に聞く」と大書したポスターでした。

あなたは何を求めて生きていますか。何のために働いているのですか。死後について考えたことがありますか。これらの問題に、ハッキリと答えてくだされたのが、親鸞聖人です」という文言も入れました。ハッとするでしょう?

ポスターは、自分たちが貼るだけでなく、そこは大都市・大阪です、地下鉄や市バスでの宣伝に特に力を入れました。チラシは、大阪駅や天王寺駅の雑踏で、徹底的に配りました。

前日の会場準備も、短い時間で手際よく。大変でしたが、その頃は、本会のトラックが、お仏壇、絨緞、放送機材、下足棚など、必要なものを一括して運んでくれましたので、みんなで力を合わせて搬入しました。

会場にビニールを敷いてその上に絨緞を敷く。演壇は、土台を組み、板を敷いて、その上に絨緞を敷きました。その演壇の中央に、お仏壇を設置しました。荷物置場、下足置場の組み立ても、大変な作業でした。

いよいよ当日、参詣者がどれくらいあるのか不安でしたが、大盛況で本当によかったです。

高森先生は「貿易センターは、とても話しやすい」と仰ってくださいました。細長い構造や天井の高さなどが程良く、音があまり拡散しないからでしょうか。現在の親鸞会館の本館を建てる時に、参考になされたと聞いています。

初日の夕方には、多くの青年学徒が大阪の街へ飛び出して、翌日のご法話を案内しました。それで参詣された方もかなりありましたね。

どのような人が参詣したのか考える

初めての法話が終了したあとに反省会をしました。ご縁を結んだ皆さんに、どう伝えていくかを考え、また、次回のご法話に備えるためです。

市バス、地下鉄、新聞、チラシなど、どの広告による参詣者がいちばん多かったか。バスや地下鉄の中でも、それぞれ、どの路線が効果が大きかったか。また、市町村などの地域別に見るとどうか。

参詣者のアンケートを妻と一緒に集計し、円グラフを数種類作って、発表しました。その結果に基づいて、経費を最大限生かせる宣伝方法を皆で検討し、翌年につなげていったのです

大阪に真実が芽吹く第一歩を踏み出せた。これから大阪府全域へ、また、西日本の拠点として、もっと広めていくぞと、燃えずにおれませんでした。

大阪は、高森先生ご法話を毎年、最大の目標として継続しているうちに、発展したのだと思います。

昭和58年には、第1回の全国青年部ご法話が、初回の時と同じ、国際貿易センターで開かれました。この頃には、仕切りを一切なくして大ホール全体を会場にし、スタッフルームは別に用意しました。

また、申し訳ないことに、講師の方は別室でテレビ聴聞となりましたが、それでも、5度、6度の会場整理も追いつかぬほどの、満堂の参詣者でした。入り切らない聴衆が、廊下や通路にまであふれたんですよ。

まだ保育制度のない時代、母親たちも、幼い子供たちを連れて、別室での聴聞でした。

いよいよ、大阪城ホール

貿易センターが参詣者であふれると、新大阪のチサンホテル、堺の地場産業振興センター(現・堺市産業振興センター)などを会場としていましたが、ついに、平成9年から12年までは大阪城ホールで開催いたしました。

大阪城ホールといえば、数千人を収容できる会場で、知名度もバツグンです。しかし、高森先生をご招待し始めた昭和50年代には、そこへお迎えする力が私たちにありませんでした。会場費も、一日数百万円かかります。

それが、関西全域の親鸞学徒の主催する「関西降誕会」として開催されたのです。こんな大会場でできるとは、大阪に移った頃は、想像もできませんでした。

如来聖人のご念力はもとより、弥陀の本願一つ、命懸けで叫び続けてこられた高森先生のご苦労あればこそ、です。

説かれる方が命懸けなのですから、私たちも命懸けて、他力を聞き抜かせていただかねばならない。親鸞会60周年を新たなスタートとして、900万の大阪府民にますます、弥陀の弘誓を伝えていきたいと思います。

『御文章』に初めて登場した 「大坂」という地名

「大坂」という名称は、蓮如上人が『御文章』の4帖目15通(大坂建立の章)に、「抑、当国摂州・東成郡・生玉の庄内・大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや……」と書かれたことが、歴史上最古の記録である。

詳しくはこちらの記事をお読みください。

 また、「石山」の名称は、蓮如上人がこの地に寺院を建立された時、寺院の基礎とするにちょうどよい石が地中からたくさん出てきたことから、石山本願寺といわれるようになった、と伝えられている。

編集後記

当時の親鸞学徒がどのようにして、大阪に高森先生をご招待しようとしていたのか、よくわかりました。

宣伝を工夫し、経費をやりくりし、継続的に仏法を伝えられるよう試行錯誤された結果、いまの大阪会館があるのだと改めて諸先輩方に感謝せずにおれません。

大阪会館は、数年でできたのではなく、数十年かかって建立なされたものだと自覚し、これからも一座一座大切に聞法させていただきたいと思います。

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