定専坊の浄賢の帰依

定専坊

今回は、定専坊の浄賢について、紹介します。

目次

三番にある定専坊浄賢のもとでのご遺言

浄賢は、御一代記聞書に登場しますので、最初に御一代記聞書の内容を説明します。

蓮如上人、御病中、大坂殿より御上洛の時、明応八、二月十八日さんば浄賢処にて、前住上人へ対し、御申しなされ候う。「御一流の肝要をば、『御文』に委しくあそばしとどめられ候うあいだ、今は、申しまぎらかす者も、あるまじく候う。此の分を、よくよく、御心得ありて、御門徒中へも、仰せつけられ候え」と、御遺言の由に候う。しかれば、前住上人の御安心も、『御文』のごとく、また、諸国の御門徒も、『御文』のごとく、信をえられよとの支証のために、御判をなされ候う事と云々

引用:御一代記聞書

意訳:明応8年(1499年)2月18日、蓮如上人はご病気の中、大坂御坊から京都の山科本願寺へ向かう途中、三番(さんば)の浄賢の道場(定専坊)にて、実如上人へ申されました。

「浄土真宗の肝要を『御文章』に詳しく書きとどめたので、今は教えを乱す者もないだろう。このことをよくよく心得て、御門徒の方々へ正確に説き聞かせなさい。」とご遺言なさったということです。

そうであるので実如上人のご信心も『御文章』のとおりであり、また諸国御門徒の方々も信心を獲得していただきたいとのお気持ちの証として、実如上人が御門徒へお与えになる御文章の末尾に花押を添えられました。

以下では、三番村について、定専坊、浄賢、ご遺言について、解説します。

三番村と呼ばれる地域

「さんば」は、三番村のことです。神崎川と中津川のあいだの三角州、柴島付近にあり、現在の東淀川区豊里にありました。

当時の三番は、京都と大坂を結ぶ交通の要路であり、船着き場があったといいます。

三番の地名の由来には二つの説があります。

  1. 古くは中洲があり「中島」と呼ばれていた場所です。欽明天皇が観猟に訪れた際、側近が祝宴を開き天皇をたたえたことから、天皇が「この地を讃場(賛美する場所)と呼ぶがよい」と名付けたという説。
  2. 浪速(大阪)から京都への船着場が一番、二番と順に設けられ、この地が三番目の船着場だったことから「三番」と呼ばれるようになった説。

三番の地域は、聖徳太子が四天王寺を造営する際にこの地を訪れた場所であり、僧侶の行基が寺院(現在の定専坊の前身の寺)を建立したといった、仏縁深い場所と考えられています。

蓮如上人は、有馬温泉で療養される際にも、三番を通っておられます。

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では三番にあった定専坊とはどのような寺なのでしょうか。

定専坊の浄賢について

三番には、奈良の大仏を建立したことでも有名な僧侶行基が開いたと伝わる、真言宗の西光寺がありました。

寺伝である定専坊文書によれば永徳1年(1381年)、戦国武将の楠木正成が始めて表舞台に現れた、赤坂城の戦いが河内国で勃発し、永徳2年に赤坂城が没落したあと、楠木正成の孫、正勝が本地に残り、隠遁して西光寺で居住していたといいます。

(実際の、赤坂城の戦いは元弘元年(1331年)の9月に始まって10月に終わっていますが、寺伝に基づいて記載しています。)

楠木正成は、本願寺3代の覚如上人と親交があったと言われており、正勝は正成を追慕し、4代目善如上人から教えを聞いていたと伝わっています。

7代目存如上人のときには、正勝の孫である掃部助が出家し、浄賢(浄顕)と名乗り、西光寺に住持しました。

その後、蓮如上人をお慕いし、蓮如上人のもとで、もともと真言宗だった宗派を、浄土真宗に改宗し、西光寺から定専坊へ改称しました。

定専坊の由来

定専坊という名前は、蓮如上人から賜ったものです。

ある時、山城国の本遇寺が蓮如上人を暗殺しようと企てました。しかし浄賢がその反逆を見破り、上人をお守りしました。

蓮如上人はこの浄賢の功績に深く感謝し、「定専坊」という名前を授けたと言われています。

定は「正定業」、専は「一心専念」のお言葉に由来するといいます。

定専坊は、蓮如上人が大坂で最後に訪れた場所だと言われています。

大坂での最後の地

蓮如上人がお亡くなりになられたのは、明応8年3月25日。

明応8年2月18日は、お亡くなりになる約一ヶ月前のことです。

蓮如上人はもともと大坂御坊を終焉の地に決めておられました。しかしその後、考えを変えられて、山科本願寺へ向かわれるとき、その途中で定専坊へ立ち寄られました。

蓮如上人が大坂御坊へ込められた思いについては、こちらの記事をお読みください。

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蓮如上人は、過去にも幾度も定専坊へ足を運ばれており、大坂の人々に親鸞聖人の教えを伝えるに当たり、定専坊は大変重要な場所でした。

また蓮如上人と浄賢との間には、大変深い信頼関係があったからこそ、最後に浄賢のもとへ足を運ばれ、改めて御文章の大切さをご遺言なされたのだと拝察されます。

蓮如上人は実如上人へ話をされたあと定専坊に一泊し、翌朝出発される頃には、定専坊にお弟子門葉が、街中にあふれ、あたかもお釈迦様の涅槃の会座に参詣し、最後のご説法を聴聞しにきているようだったといいます。

最後に浄賢が御記念(おかたみ)を願い申し上げると、蓮如上人から六字の御名号を与えられ、蓮如上人はこのように仰せになりました。

「予が御文章に書き記した通り、信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。如来聖人の賜物なるぞ、おろそかにするべからず。」

編集後記

蓮如上人とお弟子方との記録をたどっていると、大変深い信頼関係が築かれていたことがわかります。

定専坊は、石山合戦の際にも、最前線で石山本願寺を護り抜いた寺としても知られています。

蓮如上人や親鸞学徒の先輩方が協力し、親鸞聖人の教えを護り抜かれたおかげで、いま阿弥陀仏の本願を聞かせていただくことができます。

これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で大切に聞かせていただきましょう。

定専坊

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