法然上人が仏教界に与えた影響力(大原問答と選択本願念仏集)

法然上人は承元の法難(1207)の時、流刑となり、数ヶ月後に赦免されましたが、しばらく京都へは戻れませんでした。

かの國に配流、しかるをおもふところあるによりて、ことにめしかへさしむ。但よろしく機の内に
居住して、洛中に往還する事なかるべし。

引用:勅修御伝

意味:土佐の国へ配流となる。しかし思うところがあって、特に召しかえさせる者である。しかし京都の近くに住むことはあっても、京都へ往来することがあってはならぬ

この時、大阪の勝尾寺に滞在されるなど、大阪とも非常に縁の深い方が法然上人です。

今回の記事では、法然上人が仏教界や社会に与えた影響の大きさについて、紹介します。

目次

比叡山での研鑽

法然上人はまだ勢至丸と呼ばれていた13歳のとき、僧侶だった叔父をたより、出家したいと願い出ます。

叔父は勢至丸の聡明さを見抜き、比叡山西塔にいた持宝房源光(じほうぼうげんこう)に紹介状を送りました。

紹介状には「進上、大聖文殊像一体」と書かれていたと言い、勢至丸の聡明さを智慧にすぐれていたと言われる文殊菩薩にたとえて紹介しました。

源光から天台宗の教えを学んだ後、2年後には東塔西谷の碩学である皇円に弟子入りし、ここで正式に得度したと言われます。

更に3年後には、皇円から西塔の黒谷いた叡空に弟子入りしました。若くして栄耀栄華の道を捨て、生死の一大事の解決を求める勢至丸に感動した叡空は、「法然道理の聖人なり」という意味で房号を「法然」、師匠の源光と叡空から一文字をとって諱を「源空」と命名しました。(参考:拾遺古徳伝)

叡空のもとで5年聞法求道するも、生死の一大事の解決はできず、さらに他宗派の教えを学ばれました。

南都遊学

法然上人は24歳の時、比叡山延暦寺を下り、京都の嵯峨釈迦堂で7日間籠もりました。

その後、法相宗興福寺の蔵俊、三論宗醍醐寺の寛雅、華厳宗仁和寺の慶雅などを訪ね、各宗派の教えについて議論を交わしました。この時、法然上人の学識の深さにはみな敵わず、舌を巻くばかりだったと伝えられています。

法然上人の各宗派へ赴かれたことを「南都遊学」と呼ばれます。

しかし法然上人はこの遊学によっても、「生死の一大事」解決の道を見出すことはできませんでした。そのため、再び比叡山の黒谷に戻り、一切経がそろっている経蔵の報恩蔵に籠り続けました。

この時の様子をこのように伝えられています。

凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとえば猿の枝につたふがごとし。
まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。いかでか悪業煩悩のきづなをたたんや。
悪業煩悩のきづなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を解脱げだつすることをえんや。かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときはすでに戒・定・慧の三学の器にあらず。
この三学のほかに我が心に相応する法門ありや。我が身に堪えたる修行やあると、よろづの智者に、求め、諸々の学者に、とぶらいしに、教ふる人もなく、示すに輩もなし

出典:『勅修御伝』

聖道仏教で教えられる戒・定・慧の三学ができ難いことを知らされた法然上人は、救われる道を探し、黒谷の報恩蔵に籠られました。

法然上人の獲信

その後、法然上人は善導大師のお言葉に導かれ、黒谷の報恩蔵の中で獲信されたといわれています。

しかる間、嘆き嘆き、経蔵に入り、悲しみ悲しみ、正教に向かい、手ずから、自ら、披き見しに、善導和尚の観経の疏の
「一心に専ら彌陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業と名ずく、彼の佛の願に順ずるが故に。」
という文を見得て後、我らが如くの、無智の身は、偏にこの文を、あふぎ、もはら、この理を、頼みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなうべし。

出典:『勅修御伝』

黒谷には、釈迦が生涯かけて説かれた一切経を収めた報恩蔵があり、経典の数は、七千巻以上もあります。

法然上人は、「生死の一大事」の解決を求めて、ひたすら仏道修行に打ち込まれました。

しかし、天台宗の教えに、真剣に向かえば向かうほど、見えてくるのは、とても救われない自己の姿ばかりでした。

法然上人は報恩蔵へ入り、泣き泣き、一切経を読破されること、5回。

承安5年(1175)の春、阿弥陀仏の本願によって、後生暗い心が晴れ渡り、「このような悪ばかり造っている法然でも、このような愚痴の法然でも、阿弥陀仏は救ってくだされた」と涙ながらに叫んでおられます。

浄土宗を開宗

法然上人が浄土宗を立てた趣旨について、次のように述べられています。

我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報土に生まるることを、示さむためなり

出典:『勅修御伝』

これまでの仏教各宗派の教えでは、凡夫が極楽浄土へ生まれることは認められませんでした。

しかし法然上人は、戒定慧の三学の修行ができない凡夫が、極楽浄土へ往生できることを明らかにするために、浄土宗を立てられたのです。

公家も武士も農民も身分を問わず、法然上人の教えを聞こうと、京都の吉水に集まりました。

また各宗派の僧侶も法然上人のお弟子となっていきます。

そこで危機感を強めた、聖道仏教の各宗派の学者の代表が集まり、法然上人を京都の大原にある勝林院へ招いて、問答を行ったのです。

大原問答

大原問答のきっかけは、後に天台座主となる顕真と、法然上人が坂本で対面し、生死の一大事の解決について話し合いました。

話し合いのあと、顕真は法然上人のことを「偏執の失がある」(聊有偏執失云)と指摘したところ、これを伝え聞いた法然上人は「不勉強だから疑心を懐いたのだ」(於不知之事者、必起疑心也。)と斥けました。(参考:醍醐本法然上人伝記)

顕真は不勉強であったことを認め、浄土教の勉学に励んだ後、法然上人を再度招いて質問しようと、聖道仏教の各宗派の代表を集めて大原問答が行われました。

大原問答について詳しくは、こちらの記事をお読みください。

法然上人はすべての質問をたったお一人でことごとく論破され、阿弥陀如来の本願の素晴らしさを知らされた大衆は、異口同音に念仏を称え、三日三晩、念仏の声は途切れなかったといいます。

大原問答の影響

歴史的にたくさんの法論がありましたが、その中でも特に日本の社会に大きな影響を与えた宗派対宗派の法論(宗論)が4つあります。

それを日本四箇度宗論(本朝四箇度宗論)といいます。

4つは、以下のとおりです。

大原問答:1186年(文治2)浄土宗の法然上人が洛北大原の勝林院において諸宗の碩学を相手に論議したこと。

文亀宗論:1501年(文亀1)、管領細川政元の命で京都で行われた日蓮宗浄土宗の宗論

安土宗論:1579年(天正7)織田信長が安土城下の浄厳院で浄土宗の玉念ら日蓮宗の日珖らを対決させた宗論

慶長宗論(江戸宗論):1608年(慶長13)江戸城中の家康の面前で行われた浄土宗源誉ら日蓮宗日経らによる宗論

いずれの法論も、聖道仏教と浄土仏教、どちらが釈迦出世の本懐なのかが争われ、すべて浄土仏教側が勝利したと伝えられています。

大原問答以外は、一宗対一宗の法論ですが、大原問答は、法然上人(1人)諸宗派(380余人)であったことを考えてみても、いかに法然上人が智慧第一だったのかが知らされます。

そして後に法然上人は、選択本願念仏集を書かれたことで、さらに仏教界に大きな衝撃を与えました。

選択本願念仏集の影響

1198年(建久9年)、関白九条兼実の要請に応じて、法然上人が撰述された2巻16章のご著書です。

浄土三部経の経文を引用し、それに対する善導大師の解釈を引き、さらに法然上人御自身の考えを述べておられます。

末法においては称名念仏だけが相応の教えであり、聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべきと説かれました。
それまでの観想念仏を排して、阿弥陀仏の本願を称名念仏に集約することで、仏教を民衆に開放することとなります。(※観想念仏は、仏の姿や浄土の具体的様相を心に想起する観法をいい、称名念仏に対する言葉です。)

浄土教の歴史の中で画期的な意義を持つ聖教を書かれたのです。

1212年に刊行され、高名な仏教学者(特に善導大師)の書を引用し、弥陀の本願の救いを説かれた書です。

確固たる学問的な根拠を示して、弥陀の本願によらなければ絶対に救われないから、聖道仏教はさしおいて、浄土仏教へ入れ、と徹底して教える『選択本願念仏集』は、仏教界にとてつもなく大きな衝撃を与えました。

『選択本願念仏集』には聖道門の「捨閉閣抛」(しゃへいかくほう)が始終一貫して、説かれてあります。

捨=捨てよ。
閉=閉じよ。
閣=さしおけよ。
抛=なげうてよ。 
 

法然上人は、自力聖道門の仏教を「捨てよ」「閉じよ」「閣(さしお)けよ」「抛(なげう)てよ」の厳しい廃立を教えられました。

華厳宗の明恵は生前の法然上人を高徳な人格だと尊敬していましたが、
法然上人の死後「選択本願念仏集」を読んで激怒し、すぐさま『摧邪輪』三巻で反論しました。

これを皮切りに反論書が次々出されましたが、擁護する書も後を絶たず、激しい応酬となりました。当時の仏教界は『選択本願念仏集』を中心に動いていたのです。

そして一部の人からは、『教行信証』は『摧邪輪』への反論書であるとも言われています。

経釈のご文を引用なされ、理路整然と開闡なされたので、『選択本願念仏集』は日本仏教史に燦然と輝く金字塔といわれます。親鸞聖人は、『教行信証』後序に、

まことにこれ希有最勝の華文・無上甚深の宝典なり

引用:『教行信証』後序

と、言葉を尽くして『選択本願念仏集』を褒めたたえておられます。

選択本願念仏集と教行信証

親鸞聖人の主著・『教行信証 」は、法然上人の主著『選択本願念仏集』を解説された御著書です。

様々な『選択本願念仏集』の解説書がでましたが、浄土真宗からは、親鸞聖人の『教行信証』によって、初めて法然上人の御意が明らかになりました

法然上人の門下生にとって、『選択本願念仏集』の書写を許される事は師匠の厚い信頼の証でした。
380余人のお弟子の中でも聖覚法印・善慧房証空・隆寛律師等の少数に限られていました。入門して相当の年月の経つ高弟ばかりです。

親鸞聖人は若くして入門して4年程で『選択本願念仏集』の書写を許されました。いかに親鸞聖人が法然上人から信頼・期待されていたかが分かります。

法然上人と浄土真宗の関係については、こちらの記事をご覧ください。

編集後記

親鸞聖人は、法然上人を大変お慕いし、法然上人によって救われたとまで仰っています。

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし

引用:『高僧和讃』

意味:苦しみの根元も、それを破る弥陀の誓願のあることも、果てしない遠い過去から知らなんだ。もし、真の仏教の師に会えなかったら、人生の目的も、果たす道も知らぬまま、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたに違いない。親鸞、危ないところを法然(源空)上人によって救われた

法然上人が阿弥陀仏の本願を明らかにしてくださらなければ、救われる道は決してわかりませんでした。

浄土真宗親鸞会大阪会館で、法然上人、親鸞聖人が命をかけて伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を、これからも真剣に聞かせていただきましょう。

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