大阪は、83歳の蓮如上人が新たな布教拠点として「石山本願寺」を建立された因縁浅からざる地です。当時の法城は、今の大阪城付近に存在しました。 蓮如上人の『御文章』4帖目15通には以下のように記されています。
抑、当国摂州・東成郡・生玉の庄内・大坂(おおさか)という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや。去んぬる明応第五の秋下旬の頃より、仮初ながらこの在所を見初めしより、既にかたの如く一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははや既に三年の歳霜を経たりき。
『御文章』4帖目15通
奸雄・織田信長も落とせなかった南無六字の城は、先達の熱い信仰に護られた難攻不落の法城でした。本願寺は石山周辺に、多くの砦(とりで)を築きました。信長の伝記『信長公記』には
大坂も、こう津、丸山、ひろ芝、正山をはじめ、端城五十一ケ所申し付け、たてこもり
と書かれています。「百姓ノ持チタル城」が、本願寺を囲むように51カ所も造られました。『陰徳太平記』によるとその51の支城の 中に「野江」という名前が見受けられます。(高津城、丸山城、広芝城、正山城、 森口表城、大海城、飯満城、中間村城、 鴫野城、野江城、楼ノ岸城、勝曼城、 木津城、難波城、本庄城が『信長公記』や 『陰徳太平記』に記載があります)
これにより『日本城郭大系』では、「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最も有力である」と解説されています。
