今回は、大阪府松原市立部にある真宗大谷派・願成山栄久寺と、同寺に伝わる教如上人の消息(お手紙)について紹介します。
河内国の地に、23歳の教如が石山合戦の最期を越えて門徒に託した一通の手紙が、今も大切に伝えられています。蓮如上人の教化から始まった河内の教線、激動の石山合戦、そして法義を護ろうとした門徒の歩みを紹介します。
蓮如上人の教化と河内の教線

1475年(文明7年)、本願寺第8世・蓮如上人は越前・吉崎を退去し、河内国・出口(現在の大阪府枚方市)に拠点を移されました。
出口御坊についてはこちらをお読み下さい。

ここを拠点に、摂津・河内・和泉へと約3年間、熱心に教化を広げられました。
蓮如上人は、誰にでもわかる仮名書きの「御文」を用い「講」を通じて、阿弥陀仏の本願を隅々まで伝えられました。
蓮如上人が1496年(明応5年)、最後に建てられた法城「大坂御坊」は、やがて壮大な城郭寺院「石山本願寺」へと発展していきます。河内国は、出口御坊や久宝寺御坊とともに、親鸞聖人の教えを伝える重要な土地となりました。
立部の栄久寺の由来「観音寺から真宗へ」

栄久寺は、もともと真言宗の観音寺という寺でした。1492年〜1501年(明応年間)、蓮如上人の巡教に触れ、浄土真宗へ改宗して「栄久寺」と改称したと伝えられています。
立部は、古来より大和と河内・難波を結ぶ竹内街道の要衝でした。交通と情報の結節点に位置する重要な土地となっていました。
なお、1983年〜1985年(昭和58年〜60年)にかけて行われた埋蔵文化財発掘調査では、立部の「観音寺遺跡」と呼ばれる地点から、室町時代(14〜15世紀)の瓦や土器、灯明台などが出土しています。灯明台には「寺」の文字が記され、「西城房」と刻まれたものも見つかりました。観音寺遺跡という名称は、現在の栄久寺がもとは観音寺と呼ばれていたことに由来するとされています。
栄久寺は、久宝寺や出口のような「御坊」級の中心寺院ではなかったようです。
しかし河内門徒のなかで、聞法道場と石山本願寺の法主からの手紙を受け渡す中継的な拠点として重要な役割をもっていました。
蓮如上人がお亡くなりになった後も、石山本願寺と栄久寺の連携は続いていくことになります。
十一年に及ぶ激闘「石山合戦」

1570年(元亀元年)9月、本願寺第11世・顕如上人は、織田信長との全面対決を決意します。
「信長が本願寺を破却すると言ってきた」
と全国の門徒に檄を飛ばし、1580年(天正8年)までの11年に及ぶ「石山合戦」が始まります。
石山本願寺の南方に位置する河内国は、信長軍と本願寺軍(一向一揆勢)が激突する最前線となりました。久宝寺をはじめとする寺内町は打撃を受け、門徒たちは苛烈な戦乱の渦中にありました。
顕如上人の長男・教如(幼名:茶々麿)は、1558年(永禄元年)に石山本願寺で生まれました。教如は石山合戦が始まる年である1570年に13歳で得度し、常に包囲網の中で父を補佐しながら、多感な青年期を過ごすこととなります。
若き教如もまた、必死に親鸞聖人の教えを後世に伝えるためにどうしたらいいのか、考え抜くのでした。
顕如と教如「父と子、それぞれの決断」

1580年(天正8年)3月、毛利水軍の敗北により兵糧支援が途絶え、疲労困憊した顕如上人は、朝廷の仲介による勅命講和を受け入れ、信長との和睦を決断。
同年4月9日、顕如上人は石山本願寺を退去し、紀州・鷺森(現在の和歌山市)へ移りました。
しかしこの和睦に強く反対したのが、当時23歳の教如でした。教如は石山本願寺で生まれ、この地で育ちました。そして長島や越前で多くの門徒が信長によって犠牲になった歴史を多く目の当たりにし、信長がどういう奴だったのか、身をもって知っていたのです。蓮如上人がもっとも好んだと言われる最後の法城「石山本願寺(大坂本願寺)」を、容易には信長に渡すことはできませんでした。
教如は強硬派の門徒とともに籠城を続け、「大坂抱様(おおさかかかえざま)」と呼ばれました。
顕如上人も教如も、親鸞聖人の教えと門徒を護る想いは同じでした。
顕如上人は石山を退去して法灯を未来へ残す道を選び、教如は、すでに失われた命と、なお石山に残る人々、そして浄土真宗の未来を思い、本山を守る道を選びました。どちらも、未来の見えない中での苦渋の決断だったのです。
結果として、顕如上人は断腸の思いで教如を義絶(勘当)され、親子の縁を切ることとなりました。
孤独な籠城、退去、そして栄久寺へ

父から義絶され、正統な法主という後ろ盾を失いながらも、教如は約4か月間にわたって籠城を続けました。23歳で孤独に指揮をとる教如。加賀や三河など諸国の門徒へ抗戦の檄文を送り続けたのです。
しかし、孤立無援の状況下で包囲を耐え抜くことは不可能でした。近衛前久らの説得もあり、ついに教如も退去を受け入れるに至ります。
1580年(天正8年)8月2日、教如は石山本願寺を退去し、紀伊国・雑賀へと逃れました。退去直後、本願寺から火の手が上がり、三日三晩燃え続け、壮麗な伽藍は完全に灰燼に帰しました。『信長公記』は松明の火が風で燃え移ったと記しますが、『多聞院日記』には「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」との噂も伝わっています。
大坂を脱した教如が紀伊へ向かう道すがら、立部の栄久寺に一泊したと伝えられています。住職・良円は、立部の庄屋・新田氏以下の信徒とともに、教如を盛んに出迎えたというのです。
義絶された者を迎えることは、寺の存続に関わることでした。それでも栄久寺の人々は教如を受け入れました。大石山本願寺を護るために貫いた信念への深い共鳴が、そこにあったのでしょう。
門徒たちには、若き教如の気持ちが痛いほどわかりました。
最後まで命がけでみんなのために拠点を護ろうと抗いぬいた若き教如を、無下にできるはずがありません。
「才能ある教如が生き残ってくれさえいれば、親鸞聖人の教えはこれからも未来に伝えられる」
そのような安堵感もあったことでしょう。
教如は後に和歌山に身を寄せながらいくつかの寺に手紙を出しています。
その1つが栄久寺でした。
教如の消息

大坂を去った約一か月後、1580年(天正8年)9月6日、和歌山の雑賀に身を寄せていた教如は、河内国の坊主衆・門徒衆に向けて書状をしたためました。それが現在も栄久寺に伝わる「紙本墨書教如上人消息」です。松原市指定有形文化財となっています。
縦10.8センチ、横38センチ。この極端に小さな紙は、髪の中に隠して運ぶ「髻の御書(もとどりのごしょ)」と呼ばれる密書であったと見られています。織田軍の監視をくぐり抜けて届けられた手紙でした。
「去月二日大坂令退出、至雑賀在津候、無念之雖始末候、端城等就令破脚、不及了簡次第成下、如此候、就其今度予一味同心之衆毛頭気遣有間敷候、各被嗜自法義、猶以真俗共馳走憑入計候、穴賢々々 九月六日 教如(花押) 河内国坊主衆中・同門徒衆中」
出典:「栄久寺蔵 紙本墨書教如上人消息」
意訳:去る八月二日、大坂を退いて、雑賀の港辺に滞在している。きわめて無念な結末ではあるが、出城・端城が破却されるに至っては、もはや私の思慮の及ぶところではなく、こうした結末となった。だからこそ、今度ともに心を一つにしてくれた人々は、私の身を少しも案じる必要はない。それぞれが法義をよく心がけ、これからも僧も俗もともに宗門を支えてほしい。ただそれだけを頼みにしている。
石山本願寺を失い、父に義絶され、流浪の身となった23歳の若者の、痛切な言葉が書かれています。
しかし自身が流浪の身でありながら、門徒たちを安心させようとします。武力による再起ではなく、「それぞれが法義を守り、僧も俗も一体となって宗門を支えてほしい」と伝えます。
この手紙からは戦の檄ではなく、自他ともに親鸞聖人の教えを徹底していこうという願いが伝わってきます。
教如のその後

顕如上人が急逝したため、長男の教如が法主を継ぎます。
あれほど教えのために命を賭けて石山本願寺を守り抜いた教如でしたが、、教団のトップという重い立場に立ったとき、その歩みは少しずつ違う色を帯びていきます。教如は自分を支持する者たちを新体制に据えたことで、組織内の不満が噴出し跡継ぎ問題につながりました。
問題を沈静化させようと豊臣秀吉の命によって教如は強制的に隠居させられ、准如がわずか17歳で法主となります。
この裁断には門徒たちの反発も大きく、本願寺内部はいつしか教如を慕う一派と准如を支持する一派に分かれ、深い亀裂を抱えることになっていたのです。
隠居後も教如は活発に活動したことから、あたかも本願寺内部には二人の法主がいるような状態が続きました。そこで現れたのが、かねてより教如と交流があり、その身を気にかけていた徳川家康です。1602年(慶長7年)、家康は教如に京都・烏丸六条の土地を寄進し、一寺を構えることを認めました。これが後の東本願寺となったのです。
家康の決断の背後には、家康の重臣・本多正信の進言がありました。正信は「本願寺はすでに秀吉の時代から二派に割れている」と指摘し、いっそ教如に別の寺を持たせてはどうかと家康に勧めたのです(『宇野新蔵覚書』)。すでに割れている教団を無理に一つにまとめておくより、二つの寺として独立させたほうが政治的にも理にかなった判断でした。
本願寺の東西分裂は、「家康が力ずくで東西に分けた」と語られますが、最終的な決定は家康が下したものであったとしても、その前から、本願寺はすでに内部で二つに割れていたのです。
親鸞聖人の教えによって結ばれた絆は、家康の力ぐらいで断ち切れるほど脆いものではありません。
しかし組織や立場を優先し、親鸞聖人の教えを自他ともに徹するという目的をおろそかにしてしまった結果、親鸞学徒の絆は脆くなり、分裂せざるをえない状況になったのでしょう。
教如を慕った栄久寺

栄久寺と教如の縁は、その後も深く続いていきます。
江戸時代に東西本願寺が分立した際、旧松原村の真宗12か寺はこぞって教如を法主とする東本願寺を本山としました。石山合戦の時代から教如を慕ってきたことから、自然な帰結でした。
1661年(万治4年)、東本願寺第14世・琢如は栄久寺に教如の御影(絵像)を下付しました。通常の末寺に下付されるのは直前の法主のものであることが多い中、栄久寺には教如の絵像が伝えられています。教如との特別な縁を認められたからでしょう。
編集後記
東西本願寺の分裂により、教如や准如だけでなく門徒たちも混乱に陥りました。
どちらについていくべきなのか、真宗難民が大量にあふれたことでしょう。
この分裂が、親鸞聖人の教えを伝えるために正しかったのかどうか、歴史の判断に委ねられますが、本来、親鸞聖人の教えに西も東もありません。
私たち親鸞学徒の進む道は、親鸞聖人の教えを自他ともに徹すること以外にはないのです。
これからも浄土真宗親鸞会大阪会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。